中学生の恋
いらっしゃいませ。
bar bossaへようこそ。
先日、湿った小雨が降る夜、近くの本屋で働いている竹内さんが来店した。
竹内さんは「なんだかもう梅雨なんですかね」と言いながら、カウンターに座り、「季節のカクテルを軽めで」と注文した。
僕は「もうリンゴはこれで最後ですね」と言いながら、青森の王林を絞り、竹内さんの前に出すと、一口飲み、こんな話を始めた。
「中学2年生の時、すごく好きな男の子がいたんです。
私、女の子の友達と一緒にトイレに行ったりとか苦手で、別にイジメられてたわけじゃないんですけど、昼休みは一人で図書室で本を読んですごしていたんですね。
その図書室でいつも一人で本を読んでいる男の子がいたんです。色白で女の子みたいな綺麗な顔をしていて、いつも外国の小説ばかり読んでいました。
私は村上春樹とか伊坂幸太郎とかが好きで、もう高校の図書室にあるような日本人作家の本はほとんど読んじゃったから、何か他にも良い本ないかなあ、なんて気持ちで外国人の作家の棚を見ていたんですね。
そしたら彼が私に初めて声をかけてきたんです。
『村上春樹、好きなんでしょ。だったらポール・オースターとか読んでみたら? このムーンパレスって面白いよ』
『ポール・オースター。名前は知ってたけど、面白いの?』
『もちろん本って好みだけど、でも、いつも竹内さんが読んでいる本と似ていると思うよ』
『私の名前、知ってるの?』
『だって、名札に書いてあるじゃない』
そして二人は図書室で笑ってしまって、あ、静かにしなきゃって思って『シー!』って言いあいました。
彼、宮本くんは、いろんな本や音楽や映画を知っていました。
別に知識をひけらかすわけじゃないけど、私が好きそうな作品を教えてくれたり、選曲したCDRを作ってくれたりもしました。
宮本くんは違うクラスの男の子で、私のクラスとは別の階だったんですけど、たまに廊下や階段ですれ違うことがありました。
私が宮本くんに『おはよう』って言おうとすると、宮本くんは全く私に気がついていないフリをして、過ぎ去りました。
そう。暗黙の了解で、図書室だけで私たちは仲良く話そうっていう関係になったんです。
宮本くんは他の男子みたいに下品でうるさくなくて、本当に知的でチャーミングでした。
『いつかすごい作家になるんだ』っていうのが口癖でした。
宮本くんといつものように図書室で話していたら、
『駅前の名画座で「ティファニーで朝食を」を上映するから一緒にいかない?』って誘われました。
もう私、嬉しくて嬉しくてその場でOKを出しました。
そして日曜日の午後、私は一番お気に入りの水色のワンピースを着て、駅の待ち合わせ場所に行きました。
宮本くんはスリムなジーンズにボタンダウンのシャツで、この街には似合わないくらい素敵に見えました。
映画を観終わった後、近くのマクドナルドに移って、ずっとオードリー・ヘップバーンの話をしました。
夕方になって暗くなってきたので、そろそろ帰らなきゃと思っていたら、宮本くんが『公園の方に行こうか』って言いました。
私は帰らなきゃって思ったのですが、宮本くんに嫌われたくなかったのでついていきました。
そしてベンチに座って、しばらくの間、オードリー・ヘップバーンの他の映画やジャズのことなんかについて話しました。
すると突然、宮本くんの顔が私の前にあって、唇を近づけてきたんです。
私、本当にびっくりして、宮本くんを突き飛ばして、急いで逃げて走って帰ったんです」
「あらら、宮本くん、失敗しましたね」
「私、まさか宮本くんが自分とキスをしようと考えていたなんて想像も出来なくて。とにかくびっくりして逃げちゃったんです」
「中学2年生だと、女の子でそういう感覚の人はたくさんいますよね」
「はい。それで次の日の月曜日もなんとなく図書室には行けなくて。もうそのまま1週間以上も図書室に行けないままになってしまいました。
そしたら、あの日、私と宮本くんが映画に行ったのを誰かが見つけたみたいで、私と宮本くんが付き合っているって噂になったんです。
宮本くん、勉強が出来て顔も綺麗だから、やっぱりファンの女子たちがいたみたいで、その中の一人が私のところに来て、『ねえ、竹内さんって宮本くんと付き合っているの?』って聞いてきたんです。
それで『付き合ってないです』って言ったら、その女子が『なんだ。やっぱり嘘だったんだ』って言って、その足で宮本くんのところに行って、『竹内さんに聞いたんだけど、宮本くんとは付き合ってないんだってね。今、好きな女の子いる?』ってみんなの前で聞いたらしいんです。
そしたら宮本くんも『好きな女の子いないよ』って言って、その女子が『じゃあ私と付き合って』ってみんなの前で言ったら、『いいよ』って言って付き合い始めたんです」
「そうですか。仕方ないですね」
「はい。全部、私が悪かったんです。どうしてキスくらいで逃げちゃったんだろうって。それが20年前のことでした。
宮本くんはそれからやっぱり作家になりました。まだそんなに有名じゃないんですけど、コンスタントに作品は発表しているんです。
綺麗な奥様と娘さんもいて、たまにエッセイで奥様や娘さんのことも書いていて、私、全部チェックしてるんです。そしたらこの間、『中学生の時の失恋』っていうエッセイみたいなのを発表していたんです。林さん読んでみますか?」
【中学2年生の時、ある女の子に恋をした。その女の子はいつも図書室で本を読んでいて、僕はずっと毎日、彼女を見て、いつか話しかけたいなってばかり思っていた。
そして僕は作戦を練った。彼女が読んでいる本を全部チェックしておいて、彼女が本棚の前で本を選んでいるとき、彼女と本の話をすれば良いんだって考えた。
そしてチャンスは2週間後にやってきた。僕はそんなにアメリカ文学に詳しい訳じゃないけど、おもいきって彼女にポール・オースターをすすめてみた。彼女はとても可愛い笑顔で「読んでみるね」と言ってくれた。
その日から僕の憧れの彼女との図書室での日々が始まった。僕は彼女が好きそうな本や音楽なんかを急いで先回りしてチェックして、ずっと前から詳しかったようなフリをして、話をした。そして、もちろん全ての男の子がするように、あのみっともないミックスCDRも家で何時間もかけて考えて作って、彼女にプレゼントをした。
彼女は本の話や映画の話なんかをしている時はとても楽しそうだった。僕はいつも「ねえ、僕は君のことが大好きなんだけど、君は僕のことをどういう風に思っているの?」って質問をしたくてしたくてしょうがなくて、でも、彼女は僕と「本の話」がしたいだけなのかもと思い直し、喉まで出かけていた言葉をぐっと飲み込んだ。
彼女は学校では自由だった。いつも他の女子たちとつるんだりはせず、涼しい表情で廊下を歩いた。そして僕はそれをじっと見つめるだけだった。そしていつの間にか図書室だけが僕が彼女に話しかけて良い場所になっていた。
彼女と話をして仲良くなればなるほど、デートがしたい、デートがしたいと思うようになった。学校で会っている彼女じゃなく、外で学制服以外の姿の彼女が見たかった。そして誰の目も気にしないで彼女とゆっくり話したかった。
そしてチャンスがやってきた。彼女がずっと観たいと言っていた『ティファニーで朝食を』が駅前の名画座で上映することになったのだ。
僕は何気ないフリをして彼女を誘ってみた。彼女はちょっと表情を曇らせたが、それでも僕のデートの誘いにOKをくれた。
正直に告白しよう。僕は彼女とのデートが決まってからその当日まで彼女の唇のことばかりで頭がいっぱいになってしまった。今、考えると本当にバカなんだけど、でももうとにかく彼女に会うと彼女の可愛い唇が目に飛び込んできて、映画どころではなくなってしまった。
彼女の唇に僕の唇がふれることを想像してばかりいた。彼女とキスがしたい、彼女とキスがしたい、ただもうそれだけしか考えていなかった。
そして、映画の後、マクドナルドに行って、夕方まで話し込んで、計画通りに近くの公園の方に行った。
彼女とオードリー・ヘップバーンの話をしながら、僕はどのタイミングでキスをしようか、そればかり考えていた。そして彼女の言葉が止まった瞬間、「今だ」と思い、彼女に唇を近づけた。
すると彼女は僕を突き飛ばして、逃げて帰ってしまった。
次の日、学校で謝ろう。そして「好きだ」ってちゃんと告白しようと図書室で待った。でも彼女は来なかった。そして次の日も次の日も来なかった。
ある時、僕と彼女が付き合っているという噂があった。僕は「彼女はどう思っているんだろう」ってとても気になった。でも、彼女は僕のことなんて全く好きじゃないってことが判明した。そして僕の初めての恋は失恋に終わった。
今でも後悔しているのが、どうしてあんなに彼女とキスをしたいってばかり考えたのかってことだ。
別にキスなんてしなくても、彼女と一緒に本の話をしたり、映画を見に行ったりするだけでとても幸せだったのに。どうして僕は彼女の唇のことばかりが頭の中でいっぱいになったんだろう。男って本当に悲しい。】
「なるほど。僕は男だから宮本くんの気持ち、すごくよくわかりますけどね。好きな女の子とキスしたいですよね」
「私も今ならわかるんですけどねえ。若いって難しいですね」
竹内さんはそう言うと、「私、そんなにお酒強くないんですけど、今日は2杯目いっちゃおうかな。林さん、何か軽いの作ってください」と言った。
※
僕のcakesの連載をまとめた恋愛本でてます。「ワイングラスのむこう側」http://goo.gl/P2k1VA
この記事は投げ銭制です。この後、オマケでこの話を書いた経緯をすごく短く書いています。
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