さよならの国1

そのバーでは、いつもチョコレートをつまみにカルヴァドスのソーダ割りを飲むと決めていた。

マスターは小太りで坊主頭で黒縁のメガネをかけていた。50才くらいだろうか、みんなマスターと呼ぶだけで、誰も名前は知らなかった。

マスターが笑ったところを誰も見たことがないし、マスターがどこに住んでいるのか、家族がいるのかどうかも知らなかった。

開店時間も閉店時間も決まってなく、マスターが気が向いたら昼から開けていることもあったし、夜の9時でもマスターが「もう看板だよ」と言うとみんなすごすごと帰った。

その日はずっと客は僕だけで、僕はマスターに女の子にふられた話をしたら、マスターは「失恋は人を優しくするよ」とだけ言ってくれた。

僕が6杯目のカルヴァドスのソーダ割りを注文すると、マスターが手元でお酒を作りながらこう言った。

「さよならの国は知ってるかい?」

「いえ」

「いいところだよ。一度行くといいよ」

「マスターはいったことあるんですか?」

「若いときに一度ね」

「さよならの国ってどんなところなんですか?」

「さよならの国では、人と人は一度しか出会えないんだ。一度出会ってしまったらもうそこでお別れで、もう二度とその人には会えない。だからさよならの国では、人は出会った瞬間をとても大切にするんだ。言葉を選び、出会った時間を大切にし、お互いがどんな人生を歩んできたかを語り合い、なぜ二人がそこで出会えたかを考え、そしてその出会いがとても素敵な時間になるように、お互いがその瞬間を温めるんだ」

「ふーん」

「もし行ってみたいのなら、今夜、港からさよならの国行きの船が出るよ」

僕は6杯目のカルヴァドスのソーダ割りを飲み干すとお会計をして、外に出た。10月の夜は少し寒く、僕は鞄からマフラーをとり出し、首にまいた。

そして港の方に向かって夜の道を歩き始めた。その夜は月もなく漆黒の夜があたりに立ちこめていた。

#小説

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この記事は投げ銭制です。この後、オマケでこの話を書こうと思った経緯を、すごく短く書いています。

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