恋は横

『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開㉑春のまま終わった恋

 五月。渋谷の街に雨が降り始めた。私は最後のお客様に「ありがとうございました」と告げると、扉を閉め、入り口の明かりを消した。

 ターンテーブルの電源を落とし、ラジオをつけると、この夏公開される映画の主題歌がかかった。

「君を待っている間の時間が一番楽しい。君が笑顔で現れる。君は『待った?』と言うけど、僕は緊張してしまってうまく話せない。君は気づいていない、この僕の気持ち。そして僕は知っている。いつかこんな風に会えなくなることも」

 という片思いの切ない曲だ。

 今夜は彼女の祝杯のために一九八九年のシャトー・ディケムを開けることにした。

 シャトー・ディケムはボルドー、ソーテルヌ地区の貴腐ワインという甘口のワインだ。

 私がバーテンダー修業をしたバーでは、修業を終え、独立して自分の店を開く時に、ボスがこの「シャトー・ディケム」をプレゼントするというのが恒例になっていた。

 シャトー・ディケムは熟成してちょうど飲み頃になるのに二十年以上はかかると言われている。

 独立した自分の店が順調に二十年、三十年と経ち、何か特別なお祝いがあった時に開けるとちょうど飲み頃になっているワイン。その熟成した年月を楽しめるようなよいバーテンダーになれ、というボスからのメッセージが込められている。

 一九八九年、ボルドー・ワインの最良の年だ。

 グラスを傾け、「恋には季節がある」とお客様から以前聞いた話を思い出していた。

 まだ二十三歳の頃、神楽坂のバーでバーテンダー修業をしていた時のことだ。

 そのバーにはちょうど売れ始めたばかりのある女優がよく来店していた。当時、彼女はまだ二十二歳だった。真っ黒な長い髪を後ろでまとめ、肌は白く、少しつり上がったアーモンド形の目をしていて、とても美しかった。

 彼女は神楽坂の近くのマンションに住んでいて、女優の仕事が終わった後に立ち寄り、軽く一杯か二杯だけ飲んで、サッと支払いをすませ店を後にした。

 神楽坂という大人ばかりの街で、年齢が近いから話があったのだろう、彼女は私にいつも撮影のことを面白おかしく話してくれ、私が普段、どんな場所で飲んだり遊んだりしているのかを詳しく聞きたがった。

 彼女としては、撮影現場では弱い姿は見せられなかったのだろう。まだ修業中のバーテンダーである私に、仕事の悩みのようなことも話してくれた。

 私は、彼女に完全に恋をしていた。当時のあの美しい彼女に、時たま笑いかけられ、自分の名前を呼ばれ、悩み事を打ち明けられた若い男が、彼女に恋をしないなんて無理な話だった。

 彼女が、バーの閉店間際に来店したことがあった。私がカウンターから「申し訳ありません。今日はもう閉店なんです」と声をかけると、彼女が「そっか、一杯だけでも飲みたかったのに」と残念そうにつぶやいた。

 するとボスが後ろから「おまえもう上がっていいぞ。もし彼女さえ良かったら、おまえがよく行ってる高田馬場のロックバーにでも一緒に行ってくればいいじゃないか」と、彼女に聞こえるような大きい声で私に告げた。

 彼女は、パッと明るい顔になり「ロックバーですか? 行きましょう」と言った。

 私はボスに「ありがとうございます」と頭を下げ、大慌てで更衣室で着替えた。

 バーの外に出ると、真夜中なのにサングラスをかけた彼女が待っていた。そうだ、彼女は有名な女優だったんだ、夜中に男と二人でいるところを誰かに見られると困るんだ、と気がついた。

 彼女は大通りの方に歩きながら、「高田馬場ですよね。タクシー拾いますね」と言った。

 タクシーはすぐにつかまり、彼女は慣れた動作で車に乗り込んだ。私は遠慮がちに彼女の隣に座り、運転手に「高田馬場までお願いします」と伝えた。

 隣を見るとすぐそばに彼女の顔があった。彼女はサングラスをはずし、「普段着、お洒落なんですね」と言った。近くで見る彼女はさらに美しく、私は緊張して何も答えられなかった。

 何か自然な会話をしなければ、と考えれば考えるほど言葉が出てこなかった。

 すると彼女が「そのロックバー、どんなお店なんですか?」と言った。

「学生がたまっている騒がしいお店です。古いロックがかかってて、朝までやってるから友達とよく行くんです」

「私、そういう学生がたまるロックバーって行ったことないから楽しみです」

 タクシーを降りて、そのロックバーに入ると、煙草の煙で白くかすみ、若者たちの大きい笑い声とギターの音が聞こえてきた。

 マスターが私に気づいてくれて、「あれ? 今日は女の子となの? 珍しいね。カウンターあいてるよ」と言った。

 彼女がサングラスを外し、マスターに「こんばんは」と頭を下げると、マスターは、「あ!」という表情を見せたがそれ以上は何も言わなかった。

 マスターが、私がキープしているハーパーのボトルと氷が入ったグラスを二つとソーダの瓶を持ってきた。

 私が「マスター、キャラメル味のポップコーンもください」と言うと、彼女が興味津々といった表情を見せた。

「ここのキャラメル味のポップコーン、最高なんです。あ、でも夜中にポップコーンなんて食べても大丈夫ですか?」

「おいしいものは、私、我慢しないんです」

 私は二杯目あたりからやっと緊張がほぐれてきた。

「こんな風にバーのお客さんと飲みに行くことってあるんですか?」

「いえ。うちのバーはお客さんとプライベートで会うのは禁止なんです」

「そうなんですか? でもさっきはマスターが『一緒に飲みに行ってくれば』って言ってましたよね」

「ええ。僕もびっくりしました。たぶんボスなりに気を遣ってくれたんだと思います」

「気を遣う?」

「いえ。なんでもないです」

「そうですか。なんでもないんですか。残念」

 それから彼女は少し酔っぱらってきて、こんなことを話し始めた。

「私、今は女優をやっているけど、いつか自分で映画を撮ってみたいんです。今は若い女の子の役、いずれは母の役、いつかはお婆さんの役と、誰かの演出で演じるだけではなく、自分の世界を作ってみたいんです」

「夢を持つってすごくいいことだと思います。自分の世界、作ってみたいですよね」

「何か夢はありますか?」

「僕の夢は自分のバーを持つことと、いつか小説を書くことです」

「小説ですか。じゃあその小説、私が映画にします」

「その時はよろしくお願いします」

 私たちは笑った。

 そして彼女はこう言った。

「パンダって見たことありますか?」

「上野動物園ですよね。僕はないんです」

「そうですか。私も見たことなくて一度見たいんだけど一緒に行ってくれる人がいなくて。今度の日曜日もしお暇でしたら、上野動物園に一緒に行ってもらえませんか?」

 私はもちろん承諾し、今度の日曜日に上野の駅の改札で昼の二時に待ち合わせをすることに決めた。

 日曜日、二時ちょうどに現れた彼女は帽子をかぶってメガネをかけていたのだが、周りからひとつ飛び抜けた美しさにあふれていた。

 彼女が僕に気がつき、手を振って「待ちましたか?」と言った。

 私はもう心が破裂しそうな気持ちだったのだけど、なんでもないフリをして、「いえ。あの、じゃあ行きますか」と言って、動物園に向かった。

 日曜日のパンダ舎には行列ができていて、私たちも並んでじっと順番が来るのを待った。

 いよいよ順番が回ってくると、すごい人混みで、彼女が私の手をギュッと握った。

 係員が「はい。止まらないで進んでください」という言葉を連呼していたので、私たちはほんの二、三分しかパンダを見られなかった。

 彼女はパンダを見ることができてとても嬉しかったようで、「可愛かったね。可愛かった」と言い、ため息をついた。気がつくと握っていた手は離されていた。

 一通り動物を見た後は外に出て、缶コーヒーを買って、不忍池のあたりを散歩した。ちょうど蓮の花の季節だった。風に揺れる蓮の花はとても幻想的で東京の中心地にこんな風景が存在しているのだと、不思議な気持ちになった。彼女はその風に揺れる蓮の花を見て「なんか夢みたいな景色ですね」と言い「でもこの下、みんなレンコンなんですね」と付け足して笑った。

 彼女が蓮の花を見ながらこう言った。

「私、結婚を前提にお付き合いしてくれと、言ってくれる方がいるんです。どう思いますか?」と、ある作家の名前を挙げた。

「その人、すごく有名な方じゃないですか。すごくお似合いだと思いますよ」

 私は、その後は先輩がやっているバーに誘おうとずっと計画していたのだが、あきらめて上野の駅の方に向かった。

 それから、彼女はぱったりと神楽坂のバーには来なくなり、三年後、彼女がその作家と結婚したことをスポーツ新聞の一面で知った。私の恋は春のまま終わってしまった。

 確かに恋愛には季節がある。春があり夏が来て、やがて秋になり冬となる。しかし、多くの恋は春のままで消えてしまう。気持ちを伝えられないまま、春のままで消えてしまう。

 朝、テレビを見ているといい雰囲気に年をとった彼女がメガホンを持って画面にうつっていた。テロップでは、彼女が監督として初めて撮った映画がこの夏公開されることを報じている。

 不忍池の蓮の前で元気そうに笑い、メガホンで主役の若い女優に何かを指示していた。

 一九八九年のシャトー・ディケムが開き始めた。長い間、このボトルの中に閉じ込められていたワインが三十年経ってやっと飲み頃になっていた。

 恋は失われる。失われるからこそ、その恋は永遠に幸せの中に閉じ込められる。

 後ろではラジオから彼女の映画の主題歌が流れていた。

「君を待っている間の時間が一番楽しい。君が笑顔で現れる。君は『待った?』と言うけど、僕は緊張してしまってうまく話せない。君は気づいていない、この僕の気持ち。そして僕は知っている。いつかこんな風に会えなくなることも」

 私は最後の章を書き終え、原稿用紙を閉じてからしばらく考え、余白の部分に『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』とタイトルを書き込んだ。

 この小説が出版されたら彼女は気がついてくれるだろうか。

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