坂野さんの最後の恋

#小説 #超短編小説

いらっしゃいませ。

bar bossaへようこそ。

夜は深まり、店内もほぼ満席になった。あちらの席では男性が彼女に何か耳打ちし、それを聞いた彼女が嬉しそうに笑った。こちらでは女性二人組がまたいつものように「最近は良い男がいない」という話をしている。

そんなざわついた夜、10年ぶりだろうか、以前、渋谷の近所の会社でお勤めだった坂野さんが来店した。

「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」と僕が言うと、坂野さんは

「いやあ。相変わらず渋谷は人が多いですね。ここまでたどり着くまでに何度も引き返そうかと思ってしまいました」と言った。

僕が「坂野さん、いつもので良いですか?」と言うと

「林さん、10年ぶりなのに私の飲み物覚えてくれてるんですね。ありがとう」と言った。

僕はシーバスリーガルの水割りを作り、坂野さんにお出しすると、坂野さんは美味しそうに飲みながらこんな話を始めた。

「いやあ。やっぱりバーで飲む酒は美味しいですね。こちらのお店によく来てたのはまだ退職前のことでしたね。

私、もう今年で72歳になるんです。実は5年前に妻を亡くしまして、まあ年金生活ですがちょっとした貯えもあるので、のんびり気ままに旅行なんかを楽しんでいるんです。

私、どうも海外旅行は苦手で、日本専門なんです。日本でまだまだ行ってないところ、たくさんあるんですよ。

北陸の方は結構好きで何度も行ってるんですが、この間、北陸新幹線が出来ましたでしょ。

早速、行ってきたんです。

東京駅で、北陸新幹線に乗りこんで、指定席だったので、自分の席を探して、座ったときのことでした。隣に座った女性が私と同じくらいの世代の方だったのですが、人目で『あ!』と思ったんです。ベージュのスーツに落ち着いた紺色のスカーフをして、髪の毛は濃い茶色に染めてふんわりとまとめてあって、とても品のある女性でした。はい。完全な一目惚れだったんです。

ああ、もうどうしようと思いましたが、おもいきって声をかけることにしました。

でも、変な男だと思われないように、注意をはらって、何気なく話しかけました。

『一人旅ですか?』

『はい。そちらも一人旅ですか?』

そして、私は妻に先立たれて、子供は独立していて、孫もいて、今は気ままに旅行を楽しんでいることを軽く話して、彼女のことを聞いてみました。

彼女も独り身でした。しかし、彼女の場合はご主人の浮気が原因で、お互いが50才過ぎの頃に離婚したとのことでした。

『そうでしたか。なんだか不躾に色々と聞いてしまってすいません』

『いえいえ。もう20年近く前のことですから、今となっては面白い思い出ですよ』

そして、彼女と元夫の間には子供はいなかったし、彼女の実家は多少財産があったので、ちょっとした事務仕事をしながら、ずっと一人で過ごしてきたということでした。

私は見合い結婚で、女性という存在にはそんなに興味がないタイプだと自分では信じていました。

もちろん女性が嫌いというわけではありませんが、周りの人間のように恋愛で人生を棒に振ったり、浮気をしたりする人たちの気持ちが分かりませんでした。

先立たれた女房は素敵な女性でしたし、私は愛していたと思っています。彼女と人生を一緒に暮らせてよかったと今でも思っています。

でも、目の前の彼女はそのこととは全く別でした。ああ、これが恋というものなんだ。女性に一目惚れをして、会話にドキドキするとこんなに舞い上がってしまうものなんだと私は初めて知りました。

彼女が20代に働いていた職場の話を聞いて驚きました。私が働いていたところから歩いて2、3分のところだったんです。

近くの中華料理屋や喫茶店、偏屈な親父がいる書店、いろんな話で盛り上がりました。

『ああ、じゃあ私たちすれ違っていたはずですね』と何度も彼女は言いました。

私も『そうですね。隣で麻婆豆腐を食べてた可能性はじゅうぶんありますね』と言って、笑いあいました。

それですっかり打ち解けてしまって、売り子さんからビールを二つ買って、乾杯なんかをしました。

そうこうしていると私が降りる富山が近づいてきました。彼女はその先の金沢で降りる予定なんです。

私が会社員をしていた頃なら名刺を出して、『もしよければご連絡をください』と言えたのかもしれません。

あるいは今の若者なら『メールアドレス交換しませんか』なんて気軽に言えたのかもしれません。

そして私は彼女に『また東京でお会いできませんか?』という一言が言えませんでした。

もし私がそんなことを言って、そこで彼女が変な顔を見せて断ったなら、私のこの短い時間の美しい恋が全部、醜い思い出となってしまいます。

そんなことはやめようと心に決めました。人生の終わりの方で生まれて初めての恋みたいなものが出来たんだと自分に言い聞かせることにしました。

その恋は美しいままの思い出にしようと決めました。

それから彼女に『それでは失礼します』と告げて、私は新幹線を降りました。

そして私は振り返らずに改札の方に歩いていると後ろから声がしました。

『あの、坂野さん』

振り向くと先ほどの彼女でした。

『どうされたんですか?』

『私も富山で降りようかなって思いついちゃって』

『そうですか。それでは美味しいお寿司を食べさせる店があるんです。ご一緒しませんか?』

『それは楽しみです』と言って彼女は笑ったので、私は彼女の手をそっととりました」

と坂野さんは言うと、シーバスリーガルをぐっと飲み干した。

              ※

僕のcakesの連載をまとめた恋愛本でてます。「ワイングラスのむこう側」http://goo.gl/P2k1VA

この記事は投げ銭制です。この後、オマケで「この小説を思いついた経緯」なんかをすごく短く書いています。

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