イーハトーボのこと

その喫茶店は下北沢の一番街にあった。

22才の頃、レコファンという中古レコード屋の会社でバイトをしていたとき、昼休みに偶然、前を通りかかって、「イーハトーボ」という看板を見つけた。

もちろん「宮澤賢治」だ。私は職場に戻って上司にイーハトーボのことを訊ねてみた。すると有名な音楽評論家のオーナーが経営している老舗の喫茶店で、中古レコードも扱っているということを教えてもらった。

私はいつか自分でレコード屋をやってみたいと考え、WAVEで働き、その後そのレコファンで働いていたのだが、レコード屋は在庫が全てで潤沢な資金がないと経営は難しいということを知った。

そして飲食店という可能性も考え始めていたため、同僚とさっそくそのイーハトーボに行ってみた。そして、一発で気に入ってしまった。

ジンジャーエールは生姜から自家製で作っていたり、パンは注文してから焼くので時間が必要だったり、クーラーを設置していないため、夏は窓を開け放していたりと何かとこだわりがあった。さらに内装は70年代の雰囲気をひきずっていてそれがとても心地よかった。

飲食スペースは2階で、レコード売場は3階ということで、お茶を飲んだ後、早速音楽好きの同僚と3階に上がった。

当時、私はブラジル音楽にのめり込み始めていて、デヴィッド・バーンがコンパイルしたCDに収録されていたパウリーニョ・ダ・ヴィオラというアーティストのレコードや情報を熱心に集めていた。

しかし当時はもちろんインターネットはなく、まだガイドブックも出ていなかった。そのため、レコード屋に行ってはブラジル音楽のコーナーに行き、裏ジャケやレーベルに「Paulinho da Viola」とクレジットを見つけると、とにかく買って帰るという気の遠くなるような情報集めをしていた。

そしてそのイーハトーボのレコード売場でもそんな風にごそごそとチェックしていると、オーナーと思われる方が「何か探しているレコードがあるの?」と声をかけてくれた。

それで私はおもいきって「パウリーニョ・ダ・ヴィオラというアーティストのレコードを探しているんです」と言ってみた。

すると彼が「ほお」とちょっと驚いた表情をみせた後、パウリーニョ・ダ・ヴィオラについて詳しい情報を丁寧に教えてくれた。

イーハトーボに行ったのはこの時を含め2回しかない。

2回目は、bar bossaを開店する前に、妻と、私たちにポルトガル語を教えてくれたブラジルの友人と3人で行った。店員の方がブラジル人だということに気がつき、片っ端からブラジル音楽をかけてくれた。ブラジルの友人はその対応にとても喜んでくれた。

そして「いずれ始める私たちのお店は、このイーハトーボの現代版にしよう」と妻と話し合った。

そんな経緯をbar bossa開店後、音楽評論家の中原仁さんに話したところ、中原さんもイーハトーボには70年代の終わり頃によく通い、そしてその常連の仲間には坂本龍一や山下達郎や大貫妙子たちがいたという話を聞いた。

bar bossaはイーハトーボの真似をしてレコード売場のスペースを作ったし、面白いミュージシャンも集まり始めていたし、私も音楽ライターの仕事がぽつぽつと入り始めた頃だったので、その話は後ろから追いかける人間として、とても嬉しい話だった。

                ※

自分自身のお店を始めて、あの時、イーハトーボでオーナーが丁寧にパウリーニョ・ダ・ヴィオラについて教えてくれた瞬間のことを何度も思い出しては身を引き締める思いがする。

私自身、イーハトーボに決して何度も通ったわけではないのに、勝手にこちらから熱い想いで見つめていて、自分のお店のモデルにまでしてしまっている。

あの時、あのオーナーが親切に教えてくれたあの体験だけがイーハトーボへの私の想いに繋がっている。

喫茶店やバーはすごく気に入っても、意外と1度か2度くらいしか行かないものだということを自分の経験で知った。そしてその1度のちょっとした店員との会話が、そのお客の永遠の思い出になることもあるということも自分の経験で知った。

私も心してお店に立たなければならない。

               ※

先日、ある有名なジャズ業界の方からこんな良い話を聞いた。

その人がまだ学生だった頃、村上春樹が経営するピーターキャットに行ってみた。

その人はまだ若くて怖い物知らずだったため、その時、買ったばかりのある日本のジャズ・フュージョンのレコードを店主(もちろん村上春樹)に渡して、「これかけて下さい」と言ったらしい。

すると店主は「いいよ」と言って、そのレコードを両面かけて、「結構良いね」とニコニコしながらそのレコードをその人に戻してくれたそうだ。

そしてその人にとってその瞬間は一生の思い出になった。

お店に立つと言うことは誰かの人生に参加しているということだ。私たち店員がサービスした席でプロポーズをしているかもしれない。私たちが何気なく言った言葉が誰かの人生を変えるかもしれない。

そしてイーハトーボでの経験は確実に私の人生を変えた。

私も心してお店に立たなければならない。

#エッセイ

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