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なぜ誰かと居ると孤独なのか

思いもしなかった 一人でいる時も 二人でいる時も
同じ寂しさがあるなんて

「冒険彗星」より 作詞 藤原基央

 ふと、強烈な孤独感に苛まれることがある。

 その発生源は、私が一人暮らししていることや、両親を亡くしたこととはまた別のところにあるように思う。そしてそれは、他人と接している時にこそ現れる。きっと、人が必ず連れている影のように、人間の跡をつけてまわっているのだろう。何でもない時に突如、写真で切り取ったように周りの笑顔は無機質に止まり、孤独という何者かは誰かの後ろから顔を出して、こちらを見ている。

 私は嘘を嫌っている。私の言う嘘とは、世間の言うそれより広い意味を含んでいる。それは忖度であり、謙遜であり、お世辞であり、思い込みであり、恐らく人間が社会というも歯車を円滑に動かすための潤滑油として使っているものだろう。

 そして同時に、嘘とは自分を護るために拵えた、使わなくて済むのなら使わない方がいい”刃物”だ。出来ることならその凶器を向けられたくはないし、私も向けたくはない。

 しかし人間の多くは、その刃物を簡単に抜いてしまう。その時の顔がいかに笑顔であろうと、朗らかであろうと、刃物を握られた両の手は物語っている。これ以上近づくな、と。その先には自分が隠さなければいけない、他人と関係を構築する上で秘匿しなければならないものがある、と。そしてその刃物のギラリとした輝きに照らされて、”孤独”は顔を出す。

 私は冷たい人間だと思われることがよくある。それは、私が嘘を嫌い、なるべく本心をもって他人と向き合おうとしていること、そして自分の本心と向き合うことに他人より長けているからだろう。その結果、毒舌と思われるし、言及しなくていいことにも言及してしまう。それらはきっと、通常の人間社会に於いてはモラル違反に相当するのだ。確かに、ただ人間関係を続けたい人にとっては面倒な人間だろう。

 私は冷たい人間。果たして本当にそうだろうか。

 上辺でものを言い、肯定だけを口にして、他人の言うことを聞いている方が人間関係は楽だろう。他人を傷つけないようにしていれば、自分が傷つかなくて済む。その場の空気が淀まないように、なんとなく調子を合わせて、話を合わせていればきっと上手くいくのだろう。しかしその手には必ず、嘘という刃物が握られている。

 いつか人との間には、暗黙のルールがあったはずだった。嘘をつかない、正直で居なければならない、というルールだ。しかし大人になるにつれ、これもまた暗黙のうちに反故にされていく。気付けば周りの人間はその手に刃物をチラつかせ、自分の源泉へは一切の立ち入りを禁じている。それもまた、”大人”をやる為のルールなのかもしれない。私の源泉に佇んでいるのは、ルールを把握できずに戸惑う一人の子供なのだ。

 私のルールブックにはこう書いてある。”心のやりとりをしよう”。他人のルールブックにはこう書いてある。”楽しく過ごそう、触れ合わずに通り過ぎよう”。ふとした時、私の中の子供は、自分のルールだけ他とは違うとはたと気づく。そして周りを見渡そうと顔を上げる度に、孤独と目が合う。

 気付けば、丸腰で突っ立っているのは私だけだった。これが孤独の正体だ。

 誰もが社会の中にいて、歯車として調和しようとしている。歯車であるから、流れは止めてはいけない。その場は澱みなくやり過ごし、流れるエネルギーを伝達しなければならない。私は歯車になれなかった。

 私は人の源泉が知りたい。当たり前に握ってしまっている刃物に隠された、心の形が知りたい。だから私の源泉を見せることを厭わない。私は丸腰だから、あなたにもその刃をしまって欲しい、と願っている。しかしその度、喉元に突きつけられた冷たい感触に退けられる事になる。

 一人ならば、独りにならなくて済む。誰かが居ると、独りになる。これを読んだあなたもまた、こんなことを思うのだろうか。きっと形は違えど、似たような顔をした孤独と視線がぶつかることがあるのだろう。その心の形さえ、私は知りたいと思ってしまっている。

足元をよく見て 階段ひとつずつ
どれくらいざわついていても ひとり
肩を擦るように 避けながら
世界に何億人居ようとも ひとり

BUMP OF CHICKEN 「流れ星の正体」より

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