見えないもの≠0。

見えないもの、当たり前のことはないもののように扱われます。

それぞれがそれぞれの場所で行っていることには理由も価値もあって、様々な関係性の中で選択した結果であり、とても豊かなことなのだと思います。「無駄なこと、くだらないこと」と思うのは理解や想像が至らないだけかもしれない。批判は誰かの大切な日常と、自分の生き方を否定してしまうことに繋がるかもしれないと思うのです。

人は積み重ねてきたことが「見えないものであり、価値のないものである」といわれると深く傷つき、やる気を削がれて諦めてしまうと思います。また信念をもって活動してきたことを「当たり前だ。もっと頑張るべきだ。」と言われればとても悲しい気持ちになり、信念をも見失ってしまいます。

皆の安心を守るため、正義感を持って戦うことは意義があると思います。違和感を感じることも、疑問を持つことも、自分や世界を守るために必要なスキルです。でも「何を言っても、してもいい」ということはなく、成敗して目の前から見えなくなれば解決するものでもないように思います。正義は切れ味抜群なものだからこそ、慎重に扱うべきなのかもしれません。例えば今は、海や山、パチンコ店などで遊んでいる人がいれば、人々は監視・通告し、国や行政取り締まりを求め、SNS等を媒介に多数の批判が集まり、失敗した人痛めつけられ、去っていく、見えなくなれば皆の溜飲が下がる、という様子が見られます。これはとても怖いことであるように感じます。誰もが人を成敗することはできないと思うのです。

私も「医療従事者の人へ敬意を払うべきだし、負担をかけないためにも、大事な人を守るためにも外出は控えるべきだ。」と思います。でも、もしかしたら家にいられない事情があるのかもしれない、とも思ったのです。とても苦しい選択の上に、少しでもホッとできる場所を求めているのかもしれない。深い課題があるのかもしれない。だとしたら、撃退してしまうことは更に苦しめて追いつめてしまうことになるし、家が安全でなければ他の場所を求めて移動することになると思いました。根本的な原因の解決に至らないまま「誰にも理解してもらうことはできない」と孤立を深めてしまうかもしれません。

「わかってほしい。理解するべきだ。思い知るべきだ。」という気持ちの底には、自分自身の不満や恐怖が隠れていることに気づきます。その隠れた気持ちを掻き立てるものを早く解決したいと思うとき、「正義」という鎧を着て戦おうとする自分がいます。恐怖心は視野を狭くします。焦りや不安や恐怖や、急いで正解を求めれば、様々なモノゴトの価値をないものにしてしまうし、誰かを必要以上に深く傷つけてしまうかもしれない。今の私が至らないが故に、善悪や要否を判断して語ることは慎みたいと思いました。

自分を守ることが誰かを守ることになる、このことを知らない子どもたちもいるかもしれません。子どもたちに出会ったら、「どうして外に出なければいけなくなってしまったのか。」を聴かせてもらい、気持ちを理解したうえで、「あなたと周りの大事な人を守るためにコロナウイルスの感染を避けてほしい。お家にいることができそうか。」と聞いてみたいと思います。本当に伝えたいことは、あなたにもちゃんと生きていて欲しい、一緒に頑張ってほしい、ということだと思うのです。
興味を持ち、問いかけることで理解を深めることができますように。

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