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流刑囚の映画千夜一夜物語~第九回『TENET テネット』(’20米、英)

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私流刑囚がその時々で見た映画を紹介するコーナー、第九回は『TENET テネット』』(’20米、英)。

本作の5点満点評価は…

コンセプト…4点
カメラワーク…3点
ビジュアル…2.5点
脚本…2点

総合評価…2.9点

 本作の内容を一言で表現するならば「異なる時空間における戦争モノ」といったところだろうか。「一般人の知覚が難しい次元にて行われる戦争」というとグレッグ・イーガンの短編にもそういう内容のものがあり、読んだ当時「これを映像化するならばどういう雰囲気になるだろうか?」と思ったりもしたが、本作を見て「ああこういう感じかも」とある程度であれ納得した。本作において一番の評価ポイントは「映像化が難しい題材(コンセプト)に果敢に挑み一つのパッケージングを果たした」というところであろうか。ではそれ以外(以上)に評価できるポイントがあるかと言うと、それは残念ながら「NO」と言わざるを得ない。

 まず一般論として、クリストファー・ノーランという作家は例えばキューブリックやクローネンバーグのような次元での称賛に値する存在とは言えない。蓮實重彦をして「決定的なショットが撮れない」と言わしめたように彼の映画はある側面として未熟で、拙く、無駄が多いというのも確かだ。とはいえ『ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』『ダンケルク』と作を重ねるに従いノーランの手腕は確実にレベルアップをしていたように見えた。本作はそんな期待の高まりの中(コロナ禍を経て)満を持して公開されたわけであるが、残念ながら結果としてはレベルダウンであったとしか言いようがない。

 近年は観客の側でも勘違いをしている者が少なくないのだが、映画作家の力量とは「難解な映画を撮ること」でもなければ「映画に大量の情報を詰め込むこと」でもない。それをどう「整理」するのかが問題となるのである。基本的に映画の作り手は何年もかけて一本の映画と向き合い続ける。一方で観客はその日初めてその映画と向き合うことになる。そこには情報の非対称性があって当然であり、映画の作り手が観客よりも高い次元でそれを理解しているというのも極々当たり前の話である。そうである以上「難解で情報量の多い映画を撮ってしまう」というのは作り手にとって恥でこそあれ決して名誉とは言えない。「ちゃんとした映画」とは「何を見せるのか?」の要点、ポイントを整理して観客に提示し、その上で「画」を見せるものだ。その観点で言えば本作には「駄作」以外の評価はつけようがないだろう。況してや観客が一度鑑賞しただけでポイントの整理すらできず、結果的に何度も同じ作品を見ざるを得ないなどというのは言ってみれば「映画のAKB商法」である。褒められた話でもなんでもない。

 また本作の問題点はその「難解さ」にだけあるのではない。近年のノーラン作品において魅力の牽引装置となっていたのは『ダークナイトトリロジー』におけるバットモービル、『インセプション』における共有装置、『インターステラー』における諸々のメカニックなどそのガジェットのビジュアルであったのだが、本作はそうした点において非常に貧しい。本作にキーガジェットとして登場するのは「回転ドア」であるが、これが一体どういう装置なのかを初見で直感的に理解できる観客はほとんどいないであろう。これは「難解=高尚」なのではなく単に「発想が貧しくなった」というだけなのである。

 さらに「難解」ともっぱらの評判である脚本に関しても「ヘルメットを被っていたので素顔がわからなかった」という同じネタを短時間で二度も繰り返すというお粗末な側面を持っていること、他の論者も指摘しているように「火が凍るのに車や船は運転できる」などそもそも根本的にご都合主義的でありあまり真面目に受け取る意味もなさそうであることも指摘しておく必要があるだろう。

 このようにマイナスポイントの多い本作ではあるが無論クライマックスの戦場シーンやアクションなどはなかなかの迫力であり見どころもありそこそこ楽しめる作品でもある、しかしながら以上に述べたように本作は決して「名作」「傑作」とは言い難い。それどころかクリストファー・ノーランのフィルモグラフィーの中でも下の部類に入ると言っても過言ではないのだろう。ただしそれが単なる「失敗」なのか慢心からくる「退行」なのか、それともより重大な「才能の枯渇」なのかに関しては今の段階ではまだ判断することはできず今後の推移を見守る必要がある。

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