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背景と前景

相手が、あることに対してどれくらいの知見を持っているかどうかは、その相手にしかわかりません。ですから、何かについて話すとき、いつも、その相手が、これから自分が話そうとしている内容について、「どれくらい知っていても」あるいは「どれほども知らないのだとしても」良いように話すことを、私はなるべく意識します。それでも、十分でないことばかりだと思うんですけれどね。

例えば、地元の小学校や中学校の同級生どうしだったとしたら、ある程度、共有していることが明らかなバックグラウンドが存在している場合も多いでしょう。その文脈を利用して、省ける説明というのがたくさんありますし、よりコミュニケーションが円滑にいくこともあるでしょうし、より高度な、より深まった内容について言及しあえるなどといった、良い効果も認めることができるはずとも思います。

一方で、「同じバックグラウンドを共有している」というのも、思い込みかもしれない可能性もふんだんにあります。同じ場面を体験した者どうしであっても、その場面について憶えていることって、全然違うことがよくあるのです。もっと言えば、私がまったく憶えていない私の発言を、ほかの級友が証言してみせたりするなんてことも起こるのです。私はそのことについて聞かされたときに、「ええ、そんなこと言ったっけ?」なんて反応するかもしれません。自分がそんな発言をするなんて絶対ありえない、とまでは思わないけれど、その発言をした事実については私は全然、記憶を持ち合わせていないのです。そういう状況で、そのときその人と一緒の場にいたなぁ、という記憶は一致していたとしても。

それくらい、ひとつの事象についての認識が個人で違ったりします。ですから、いちいち、私は誰かに何かの話をはじめるとき、「これこれこういう前提があってさ、それで私、こう思ったわけだよ…」なんて説明しるぎるくらいでちょうどよいかもしれないというのに、いかに私がそれを省略しがちかということについては、目を見張るものがあると思います。

今だってほら、私が、なんだってこんな話をしているのか、そのバックグラウンドがいかなるものかなんてこと、これを読んでくださっているあなたにはきっと全然伝わっていないでしょう? 私の悪癖なのですけれどね、「わかってもらえなくてもいい」「わかってもらえる場合にのみ、耳を傾けてくれればいい」としがちなこと。

「いや、なんかわかるよ。きみがそんな話を、なんで急に始めたかってこと。」

たまにそんなことを言われることがあったら、きっと私は嬉しく思います。滅多にありませんけれどね。

変な話を、最後まで読んでくださってありがとうございました。

青沼詩郎

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