『枝野ビジョン 支え合う日本』枝野幸男著、文藝春秋、2021

感想

全体

目次を見ただけで優秀な人間であることが分かる。章・節・項ごとに名称があり、どこに何を書いているか、全体の構成がどうなっているか分かるようになっている。

1章:「リベラル」な日本を「保守」する

「保守主義」に多様性の尊重が含まれるかどうかは明らかではない。また、戦後日本に限っても見ても、多様性が尊重された社会と評価できるのかは自明ではなく、「保守主義」の観点から現代日本の政策で多様性を保証していくことも自明ではない。更に著者は江戸時代とか大昔の話を持ち出しているが、保守主義の対象は現行の制度・システムで、「元々日本は平和国家で」とかは妄想の上に「保守主義」をはき違えている。


3. 新型コロナウイルス感染症が突きつけた日本の課題

3-1. 「効率性に偏重した経済」の脆弱さ

行き過ぎた国際分業が日本の安全と安心を脅かす

単純に備蓄を増やせばよいだけ。

3-2.「過度な自己責任社会」の脆弱さ

「社会の危機」が「個人の生活の危機」に直結する

効率性重視の経済は、従業員の人件費という固定費を「コスト」とみなし、削減の対象としてきた。この三○年ほど、派遣労働の規制緩和を進める労働者派遣法の度重なる改正などによって、非正規雇用、不安定雇用で働く労働者が急増した。こうした労働者の賃金は低く抑えられ

pp. 86-87

「非正規化」のかなりの部分が「フルタイムからパートへ」という認識がない。非正規だから給料が安いのではなく、パートだから給料が安いのだ。裏返せば、フルタイムの長時間労働がある訳で、そこへの対処を考えなければならない。


厚生労働省の国民生活基礎調査によれば、この一〇年で、貯蓄ゼロ世帯は一〇・五%から一五・七%に増えている。貯蓄ゼロとは、仕事を失えば直ちに「食べられなくなる」ことを意味する。

p. 87

失業保険とか知らないのかな?


3-3. 「小さすぎる行政」の脆弱さ

マスクも配れない政府

今回のコロナ禍で、安倍政権はこの疲弊した自治体組織に、「全国民一律一〇万円」の特別定額給付金(二〇二〇年四月決定)の支給にかかわる業務を「丸投げ」した。多くの職員らは、こちらも不眠不休に近い状態で対応にあたったが、国民にとってすぐに必要なお金であるにもかかわらず、申請書がいつになっても届かない状況が各地で発生し、振り込みが大幅にずれ込むなど、給付までにかなりの時間がかかる自治体が続出した。

p. 91

だから、住民票と銀行口座を紐づけていれば良いのに…ICT化で効率化するとかいう概念が欠如している。

そもそも、安倍前総理が自ら「目玉政策」のごとく打ち上げた、一世帯に一律二枚の「アベノマスク」でさえ、製品の不具合が見つかり回収を余儀なくされる、という笑えない話もあった。マスクが国民のもとに届いた頃には、すでに市販のマスクが市中に出回っていた。

pp. 92-93

そもそも、通常の流通経路ではなく、政府がモノを配るという非効率性が考慮されていない。別の言い方をすれば、通常の市場機能を上手く使うという発想がない。


3-4. コロナ禍の先に見据えるべき社会のあり方

感染症の影響は「自己責任」か?

例えば飲食業に従事している皆さん。これまで頑張って働いて店を出し、売り上げも伸びて借金の返済も終わり、これから稼いでいこうと張り切っていた方が、コロナ禍による営業自粛要請で一瞬のうちに経営破綻に追い込まれたり、借金をして開業準備を進めていた方が、店を開いた途端コロナ禍に直面し、にっちもさっちもいかなくなったりしている。

例えば映画、演劇、音楽など、文化・芸術に携わる仕事についている皆さん。昔ながらの伝統技術や文化を守るため頑張ってきた皆さん。イベント自粛要請などで多くの公演の機会が失われ、事業の継続が困難になっている皆さん。こうした分野で働く人たちの多くはフリーランスであり、イベントなどがなくなったことで全くの無収入に陥り、明日の暮らしさえままならない状況に追い込まれている。

p.96

自営業やフリーランスという就業形態を選択したのは自己責任としか言いようがない。


過度な自己責任社会から「支え合い、分かち合う」社会へ

現状が「過度」というなら、「適度」がどのくらいか、どういうものかを説明しなければならないが、そんなものはない。


4. そもそも日本は今、どこにいるのか?

4-2. 人口の急増から急減へ

労働人口の減少

人口が減少していく中でGDPを伸ばすには、一人当たりの生産性を向上させることがますます重要になる。しかし、先進国共通の傾向として、一人当たりの生産性の伸びは鈍る傾向にある。

p. 107

このような根拠は見られない。


4-3. グローバル化が直面する壁

「安価な労働力」の急激な参入

新興国が新しい技術を導入し、価格競争力で先進国に対抗できるようになるには、かつては相当の時間が必要だった。だが最近は、近代化とグローバル化のスピードが速く、こうしたタイムラグは急激に小さくなった。コンピューター技術も含めた自動化など、生産技術そのものも大幅に向上した。労働力の熟練度を問わずに大量生産が可能になり、新興国への生産地の移転がしやすい環境が整っている。現に、日本が強みを持っていたテレビなどの液晶技術は、大量生産を始めた途端に新興国に追い付かれ、追い越されてしまった。

p. 110

これが本当なら発展途上国は簡単に先進国、そこまでいかなくても中進国にはなれるはずだが、現実にはそうなっていない。


供給力の急激な拡大

新興国の安価な労働力が、急激かつ大量に世界経済に参入した結果、大量生産が可能な分野では、供給過剰に陥りやすくなった。中国による鉄鋼の供給過剰が問題になっているが、こうした状況は、当然に価格の低下をもたらす。つまり、グローバル化が進むほど、世界経済はデフレに陥りやすい。

pp. 110-111

中国が過剰生産を行っているのは、「計画経済」だからであり、むしろ「自由主義的経済」が不足しているからこそ起きる問題である。


6. 近代化の先にある社会の理念

6-1.「豊かさ」から「支え合い」「分かち合い」へ

豊かさは「目的」から「手段」へ

この議論は半分合っていて、物質的豊かさ「のみ」を目的とするのは間違えている。5章で散々アベノミクスが「消費を増やさなかった」と批判しているのに、その消費は(物質的)豊かさであるという矛盾に気付いていない。

6-2.「支え合い」の意味するもの

普遍的な「支え合い」を

しっかりとリスクとコストを分かち合い、誰が病気になったり、失業して貧困に陥ったりしても、「お互いさまに支え合う」政治や行政を取り戻していく。

p.140

「取り戻す」とあるが、過去にそんあ社会・政治・行政があったのだろうか? ありもしない過去への郷愁を利用しているという意味で、枝野が大嫌いな安倍と同じになっているのではないか?

もし、村や企業がそういう機能を持っていたと考えるのなら、それは浅薄に過ぎる。そういう「ムラ」が以下に排他的で深いコミットメントを要求されるか知らないのだろうか?


「安心」を生む社会構造

支え合いによって「安心できる社会」を作る上で改めて強調しておきたいのは、これを、「物質的な豊かさ」のみで解決することは難しい、ということだ。単に財源を確保したり、国民に現金を給付したりするだけでは、社会が抱える不安を解消することはできない。

p. 145

近年、ヨーロッパでは介護保険において現金給付を行い、「市場」を通じて介護サービスを購入していることを知らないのだろうか? 日本でも介護市場は民間企業の参加が認められている。もちろん、介護事業者の監督や認知症の人をどのように扱うかなど行政の役割もあるが、基本的に問題を解決するのは金である。そして、金で解決できない問題に行政が関与するのはむしろ望ましくない事が多い(パターナリズム)


7. 「支え合い」の社会における経済

7-2. 賃金の底上げと雇用の安定

公的サービスと労働法制

そこで、まずは、公的サービスに従事する比較的低賃金の皆さんの賃金を引き上げていく。

「支え合い」のために求められるサービスの多くが、重労働なのに低賃金、不安定雇用も多く、結果的に人手不足が慢性化している。看護師や保育士、介護職員、学童保育の指導員、さらには非正規が圧倒的に多いハローワークの職員や消費生活相談員、人手不足によって救うべき国民を救えない状況に追い込まれている児童相談所や労働基準監督署の職員などの賃金を底上げし、正規雇用を原則とする。最近は、自治体職員や教員まで無理に非正規化しているが、恒常的業務についているなら正規化する。そのためには、公的な財政支出を増やす必要があるが、最優先で財源を振り向けていく。

別に「公務員」を増やせと言っているのではない。看護師や保育士の多くは「公務員」ではないが、「公」のサービスを提供している。そして、支払われる賃金は診療報酬や税財源である。こうした方々の賃金や待遇を改善するのか、後退させるのかは、政治の判断かかっている。

pp. 156-157

この手の連中は、こういう差別を平気でやるが、「公的」でない労働など原則的にない。

  • 生きていく上で最も重要な食料を生産している農家は「公的」ではないのか? 

  • その農産品を輸送する運転手は?

  • それを小売りするスーパーの店員は?

およそ市場で取引される「モノ・サービス」は何らかの必要性があるから消費されるわけであり、特定の人にしか売らないなどという差別は日本では許されない。お金さえ払えば、誰でも欲しいものを欲しいだけ買える。もし、枝野があるサービスを「公的でない」と考えるのならば、それは立派な職業差別で憲法違反だ。彼は弁護士資格をもっていたのではなかったのか?

特に重要なのは、労働法制の整備による正規雇用の復活である。緩和し続けてきた派遣労働の対象を、段階的に絞り込む。

既に日本では、非正規雇用の割合が、被用者全体の四割に達している。前述したように、非正規雇用の増加は、社会の安定や継続性、国内消費など、さまざまな点で、経済に決定的なマイナスだ。

p. 157

民主党政権時代の強制正規化の失敗を覚えていないのだろうか?

5年同じ職務を続けていた非正規がいたら、本人が望めばそれを正規にしなくてはならないと決めた。すると何が起こったか。当然ながら多くの非正規労働者は、4年と11か月で解雇されたのである。こんなクソ法がなければ仕事を続けられたのに、クビになってしまったのである。

また、「非正規」の多くがパートタイマーであることも知らないらしい。多くは介護や子育てをしている主婦に多いが、彼女たちは「正規化」されて社会保険の保険料負担をしながら長時間労働させられることに満足するのだろうか?

労働法制を強化して「正規雇用が原則」という社会を再構築することで、中長期的な経済の安定と発展を図っていく。

p. 158

それでは労働者を全員正規化すればどうだろうか? もちろん、枝野たちは整理解雇の4要件など百も承知で、基本的に解雇できない人を「正規」と呼んでいるはずだ。頭が悪い人間は相手の立場に立って物事を考えられない。雇う側からすれば、こんなに恐ろしいことはない。その結果、正規として雇う人数を極力絞り、好景気の際には残業残業で凌ぐことになるのだろう。結果、長時間労働で疲れ果てた正規労働者と、そもそも雇ってもらえない失業者ばかりになってしまう。

これらの政策も、特に中小企業・小規模事業者にとっては負担増を伴うことから、倒産や廃業につながりかねない。まずは公的分野の雇用を先行させた上で、大企業を先行させたり、中小企業・小規模事業者には補助金を付けたりして、慎重かつ段階的に進めていく。

p. 158

結局、これらは労働に対して補助金を出しているに過ぎない。日本の労働者の9割は中小企業で働いている。ほとんどの日本の労働者に、正規化を保証するような補助金を出したら、いったいいくら財源が必要とか考えないのだろうか? そして、その財源はどこから? 法人税なら企業は倒産・撤退、所得税なら結局は労働者は働くインセンティブを失う。



はじめに

二〇一七年一〇月二日に、一人で立憲民主党の設立を宣言してから三年。二〇二〇年九月一五日、国民民主党や無所属の仲間と合流し、衆参両院で一五〇人の議員からなる新たな立憲民主党を結成した。ようやく、次期衆院選に向けて「政権の選択肢」となるためのスタートラインに立てた。


衆議院が解散された二〇一七年九月二八日、当時所属していた民進党が、小池百合子東京都知事率いる「希望の党」への、事実上の合流を決めた。翌日、私は、小池百合子氏の掲げていた理念には同意できないと考え、「希望の党」へは加わらない決断をして、地元埼玉五区の自治体議員の仲間に伝えて了解を得た。

その後、立憲民主党を結覚することになるが、多くの仲間が、「希望の党」から「排除」される見通しとなった事態を受けての、急な結党だった。だが、選挙戦では私自身が驚くほどの大きなご支援をいただき、結党からわずか二〇日で五五議席を獲得して、野党第一党になることができた。

その後も紆余曲折はあったが、私たちの旗のもとに入党してくれる仲間も少しずつ増え、二〇一九年夏の参院選では、野党間の選挙区調整や選挙協力もあり、議席をほぼ倍増させることができた。

同年秋の臨時国会からは、国民民主党などの仲間と国会内の会派をともにすることになり、質量ともにトータルとしての国会での論戦力が増した。野党議員の追及によって「桜を見る会」問題をはじめとする安倍政権への疑惑がより明確になるとともに、新型コロナウイルス感染症への対応では、政府に一定の協力を行いつつ、野党側から積極的に多くの対策を提案し実現させてきた。

これらに加え、大学入学共通テストの民間委託や検察庁法改悪を阻止するなど、与野党の議席差を感じさせない「成果」を国会内で上げていることにも、ぜひ目を向けていただきたいと思う。


この間、私は、立憲民主党や私自身が訴えてきた「自民党政権にかわる新しい社会のかたち」が、有権者の皆さんになかなかうまく伝わらないもどかしさを感じてきた。二〇一七年の衆院選で、私は「右でも左でもなく、前へ!」と訴えた。それ以前からも一貫して、自身の立場について「『保守』であり『リベラル』」だと説明してきた。これらの言葉は、有権者の皆さんから強い共感の声をいただく一方で、「何を言っているか分からない」との批判も少なからず受けた。

日本では、五五年体制当時から、与野党の対立を「右」「左」で表現してきた。自民党を中心とする与党側が「右」、社会党を中心とする野党側が「左」。五五年体制が崩壊した現在では、これがそのまま「保守」と「リベラル」という言葉に置き換えられている。つまり、日本の政治に関する言論環境の中では、「保守」と「リベラル」は対立概念とされてきた。

私は、その「常識」に異を唱えるべく、あえてこうした言葉遣いをしているのだが、そうした私の立場に違和感を覚える人が、少なからずいることも理解できる。


そんな中で、二○二○年の年明けから、新型コロナウイルス感染症の脅威が世界に襲いかかった。このウイルスの猛威と、対応に追われる安倍・菅政権の迷走は、結果として現代日本が抱える多くの問題点や課題をあぶり出した


新型コロナウイルスの感染拡大は、なお予断を許さないが、このことによって私は、これまで訴えてきた「私たちが目指す社会」の方向性は間違っていないことを確信した。「多様性を認め合い、困ったときに寄り添い、お互いさまに支え合う」社会。上から画一的に社会を導くのではなく、社会を「下から支えて押し上げる」政策。こうした方向性が、今こそ求められている。


この機会に改めて、私の考える「ポストコロナの社会像」を明らかにしたいと考え、二○二○年五月二九日の定例記者会見で、「支え合う社会へ―ポストコロナ社会と政治のあり方(命と暮らしを守る政権構想)」を発表した。

これは、党で議論して決定したものではなく、私個人としての「たたき台」に過ぎない。しかし、安倍政権に不安や不満を抱く皆さんや、自公政権に代わる新しい政権を目指す皆さんの間では、その趣旨や本質について、おおむねご理解いただけたと確信している。

そして、国民民主党などとの合併で新たにスタートするにあたってつくられた新しい「綱領」において、新たな知恵やアイデアも取り込みながら、その方向性を多くの仲間と共有することができた。


本書は、会見で発表した政権構想や、新しい立憲民主党綱領のベースになっている考え方、特に官房長官として対峙した二〇一一年の東日本大震災以降、折に触れ考えてきたことを執筆した。私の政治理念や政治哲学、ビジョンと呼んでいただいて良いと思っている。私が誤解を恐れず訴えてきた「『保守』であり『リベラル』である」という言葉の意味についても、詳細に説明している。

念のため付け加えれば、立憲民主党の個別政策や総選挙に向けた選挙政策を記したものではない。考え方を説明するのに必要な範囲で各論の記述もあるが、網羅的な個別政策は、幅広い国民の皆さんにご意見やご提案をいただきながら、党全体として、深化させた政権構想へと練り上げていくことになる。

第2章で述べているが、自民党に対抗しうるもう一つの選択肢として認められる上で、本質的に重要なのは、その時々の社会状況に応じて短期的な目標として示される各論よりも、理念とか哲学とも呼ぶべき「目指す社会像」を明確にすることだと確信している。

さて、私には、一九九八年に新民主党(新進党解党を受け、旧民主党を含む四党が合併してできた民主党)が結成されてそう間もない時期に聞いた、忘れられない言葉がある。

今となっては若気の至りと言うしかないが、当時二期生だった私は、若手の同僚議員とともに、当時三期生の岡田克也さんに、党の代表選挙に立候補することを要請した。岡田さんは、その要請をにべもなく一蹴したのだが、その理由は、「総理になる準備ができていない」というものだった(その後、岡田さんは、総理になる十分な準備を整えて、民主党の代表となった)。

野党第一党の党首は総理候補であり、その準備もないのに手を挙げることは、国民の皆さんに対して無責任極まりない。ある意味で当然のことだが、そのことを明確に認識していた岡田さんの真面目さと真剣さに、私はたじろいだ。


二〇一一年三月、私は、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故に対応する菅直人総理(当時)を、官房長官としてすぐそばで支えていた。その対応に至らない点があったことは、私も含めて重く受け止めていかなければならない。

この深刻な危機への対応を通じて、私は、「総理の責任の重み」を、なお一層、痛感させられた。

三月一二日の早朝、菅総理は、原子力発電所を含む被害状況を直接に把握する必要があるとして、ヘリコプターで総理官邸から飛び立った。その直後、万一の場合が頭をよぎり、私は背筋が寒くなった。私は、総理大臣臨時代理順位の第一位、総理に万一のことがあれば、この空前の危機に、トップリーダーとして対応しなければならない。発災直後から、官房長官として、すべての責任を背負ってこの危機に対応するのだと、腹を据えていたつもりだったし、その時点では、専門家から原子力発電所が爆発する可能性はないと言われていたが、官房長官等の一閣僚とは質的にも量的にも比べものにならない、総理が背負ているものの重さを、はじめて、みずからのこととして垣間見た瞬間だった。

そして、三月一二日に水素爆発が起きるなど、事態がさらに深刻化する中、三月一五日未明、東京電力が、福島第一原子力発電所からの撤退を打診してきた。事態が深刻化し、現場で作業を続ける方々には、命に直接かかわる危機が高まっていた。現場での作業を止めれば日本全体が大変なことになるから、撤退はありえないと思いつつも、平時に一般論として「命を懸けて欲しい」と言うのと、現に存在する危機にあってお願いすることは、決定的に意味が違う。

私は、関係する政府首脳や専門家と情報や認識を共有した上で、総理に判断を仰いだ。当時の菅総理は、いつも以上に毅然とした態度で、そしてためらうことなく、撤退は認めないと決断した。当然の決断と思いながら、同時に、このように重い判断を決然と下したことに、総理の責任の過酷さを改めて痛感した。


民主党が下野した後、何度か行われた野党第党の党首選挙の都度、立候補を促す声をかけてくれる仲間がいた。それぞれの時点で、そもそも立候補に必要な推薦人が集まってくれるのかわからなかったが、それ以前に、私は、総理になる準備も覚悟もできていなかったために、そのありがたいお誘いをお断りしてきた。


本書は、二〇一四年ごろから執筆を始めたものである。下野した民主党の一員として、そしてリーダーシップを発揮することを勧めてくれる仲間もいる中で、総理になる準備と覚悟を、執筆を通じて確認していきたい、という思いだった。

慌ただしく展開する政治の流れの中で、本書を書き上げることができないまま二〇一七年九月の民進党代表選に立候補した。本書の出版は間に合わなかったが、総理になる準備が整い、その覚悟ができたと確信したからに他ならない。

その後は、私が想像もしなかった展開で野党第一党の代表となり、政権の選択肢となるために、そして、政権奪取を目指すために、さらに慌ただしい日々が続いた。そんな中でも、何年にもわたって、何度となく書き直しや書き加えを重ねながら、政権選択選挙衆議院総選挙までに世の中に示したいと思ってきた。


本書を書き上げ、そんな準備と覚悟の一端を示すことができたと思っている

まずは、先入観にとらわれず本書をお読みいただき、日本の未来を考えていただければありがたい。

二〇二二年四月

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