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北海道家庭学校本館廊下大壁画


「祐児」とその母「満寿」

 1979年(昭和54)のことです。その頃に所属していた吹奏楽団演奏会のソリストにクラリネット奏者の村井祐児ゆうじ氏(東京藝術大学教授)を招き、C.ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番 ヘ短調 op 73を演奏しました。その時に村井氏が札幌出身で、母親が音楽家そして教育家として著名な村井満寿ます氏だと知りました。満寿氏は高階たかしな哲夫てつお作曲の「時計台の鐘」を歌い続けたことでも有名ですし、北海道大学や北海道教育大学などでの勤務を通じ、北海道の音楽教育に大きく貢献した方で、その功績に対し北海道文化賞・北海道開発功労賞・地域文化功労者表彰を受けられた人物としても知られています。
 その後、音楽雑誌での演奏会紹介記事、そして夏になるとオホーツク管内の中学校にクラリネット指導のために訪れている祐児氏の姿をお見かけしたりしていました。

北海道家庭学校

 北海道家庭学校は、男子のみが入所する社会福祉法人北海道家庭学校が運営する「児童自立支援施設」です。同様の児童福祉施設は法に基づき現在全国に北海道家庭学校を含み58カ所(国立2、都道府県立50、市立4、私立2)あり、犯罪などの不良行為をしたりするおそれがある児童や、家庭環境等から生活指導を要する児童に対し自立を支援しています。
 「家庭学校北海道分校」は、1899年(明治32)に東京巣鴨で留岡とめおか幸助こうすけが創設した「家庭学校」の分校として1914年(大正3年)に幸助によって設立されました。
 1952年(昭和27)には「北海道家庭学校」と改称し、その後1968年に東京家庭学校と北海道家庭学校の運営はそれぞれ独立しました。なお、東京家庭学校は1935年(昭和10)に東京都杉並区高井戸に移転し、現在は児童養護施設として現在に至ります。
 2009年(平成21)には、遠軽町立東小学校望の岡分校及び遠軽町立遠軽中学校望の岡分校が開設され、それまで家庭学校で行われていた義務教育に「準ずる教育」から「学校教育」への転換(公教育の導入)がなされました。

望の岡分校

 望の岡分校は独自の校舎を持たず、北海道家庭学校の既設施設をそのまま利用するという、他の多くの児童自立支援施設に導入されている義務教育とは異なる運営がなされています。特に「教務室(職員室)」には施設職員と分校職員の担当机が並び、朝の打ち合わせを合同で実施するなど施設の理念と公教育の調和が取れた教育活動を目指しています。
 筆者は2013年(平成25年)に遠軽中学校に勤務することになり、家庭学校(望の岡分校)を訪れるようになりました。

大壁画

 1959年(昭34)に田上たのうえ義也よしやが設計し建築された家庭学校本館ほんかんの廊下壁面には素朴なタッチの大壁画が飾られています。この壁画は村井祐児氏の父、そして満寿氏の夫である村井武雄たけお氏の指導により在籍生徒が1964年(昭和39)に描いたものです。壁画には当時の家庭学校の生活や作業の様子が詳細に描かれています。
 1964年は家庭学校創立50周年を記念する年で、第4代校長の留岡清男きよお氏(幸助の四男)が北海道大学勤務時の同僚であり家庭学校の支援者の一人である村井満寿氏の夫の武雄氏に依頼し、その指導で4ヶ月を掛けて壁画は完成しました。
 生徒一人ひとりが自分の顔や姿を描き入れ完成させたというこの壁画には、様々な行事や作業そして生活の様子が描かれていて、当時の家庭学校の毎日を知ることができます。今も残る風景や建物もありますが、現在では見ることのできない事柄もいくつか見つけることができます。
 画面中央上の本館前には遠軽のお祭りに参加したこともある鼓笛隊が描かれています。鼓笛隊はいつの日にか「鼓隊」として運動会入場行進時に選手を先導するという役割を果たしていましたが、児童数の減少等の理由で2014年(平成26)の運動会でその活動は終了しました。画面左に描かれている神社は、今はありませんがその小高い山は今も「神社山」と呼ばれ、冬にはその東斜面に簡易リフトが設置され家庭学校専用のスキー場となっています。(2024年シーズンはリフト用エンジン故障のためスキー学習は遠軽ロックバレースキー場で実施されました)画面左には養豚、右下には多い時に1500羽ほど飼育していた鶏舎が描かれています。ちなみに現在の遠軽町内での養鶏は、本州から新規就農された自然卵養鶏が1軒あるのみです。今は身近に見ることのなくなった3頭の農耕馬が描かれていますがその役割は、1970年(昭45)頃からトラックやトラクターに交代して行きました。グランドには生徒が野球を楽しんでいる様子が描かれています。2013年の町内中学生野球大会の一つには、家庭学校チームが参加していましたが今は野球ではなくソフトボールが家庭学校内で楽しまれています。また、今も続く相撲(年に一度大会実施)や平和山登山(毎月15日)、そして山林・蔬菜・酪農の作業等そして、今は建て替えられてしまった建物もたくさん描かれています。
 なお、1964年は、「東京オリンピック」が開催された年で参加各国選手団が持ち寄った樹木種子から育てられた「展示林」が家庭学校礼拝堂のそばにあります。カナダやアイルランド、北欧などから提供されたパイン類やトーヒ類が約160本育ち、それらの1部は東京オリンピック2020、そして遠軽町芸術文化交流プラザの壁材や椅子等に利用されています。

村井武雄

 村井満寿氏の夫、村井祐児(三男)氏の父である武雄氏は、音楽や美術そして舞台などに多才な方で、「澄川すみかわひさし」という芸名で広く知られています。

くまねこ堂 HPより

 武雄氏は慶応義塾大学を卒業後に第1回日本音楽コンクールで最優秀を受賞した声楽家(バリトン)として浅草オペラや築地小劇場で、そして、国内初の腹話術師として活躍されました。第二次世界大戦中には日劇ダンシングチームと共に中国各地を慰問、1960年(昭和35)にはフランス・パリのムーラン・ルージュの舞台にも出演しました。その芸は手品・タップダンス・ギター・ヴァイオリン・腹話術そして声楽を駆使したものとのことです。なお、腹話術師としての相棒である「チャッカリ坊や」との最後の公演は、93歳になった1992年(平成4)で、その後相棒は、著名な腹話術師「いっこく堂」に譲られたとのことです。

毎日新聞社、1992年4月20日、東京夕刊、11面

 1年間のパリ滞在中(1960)には絵も学び、帰国後には二紀展に入選し1987年(昭和62)には個展を開催しています。なお、家庭学校の大壁画が描かれたのがフランスからの帰国後の1964年(昭和39)のことですから、フランスで素朴派(ナイーヴ・アート)の絵画に影響を受けているのかもしれません。

家庭学校創立110周年

 昭和39年当時には80名を越える生徒が在籍し、山林部・土木部・果樹部・園芸部・清掃部・蔬菜部・軍手部・精米部・醸造部・木工部・輸送部・酪農部に別れ、毎日の午後から様々な作業学習に取り組んでいました。今は、在籍数も20名前後となりましたが山林・園芸・蔬菜・酪農・校内管理の5班に分かれ、毎週3日、真似事ではない本格的な仕事を通した学びが繰り広げられています。
 2024年(令和6)には、創立110年を迎えた家庭学校の本館廊下に飾られている大壁画が村井武雄氏の指導の元に描かれてから60年が経ちましたが、これからも長く毎日の家庭学校を見守り続けていくのだと確信しています。


*家庭学校の月毎の機関誌「ひとむれ」の特別号「ひとむれ創立110周年記念誌(通巻第1036号)」への寄稿原稿を再編集

writer Hiraide Hisashi


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