実験ファイル① 「ジブンに指を差す」
頭がない方法
ある日とあるウェブサイトを覗くと、「自分の顔を指差すと、その指が差す方向に顔はなく、何もない空間が広がっていることがわかる。その広がりこそが、本来の自分だ」という趣旨の「実験」が紹介されていた。ダグラス・ハーディングという人が考えた実験のようだ。これを知って以来、この方法を拝借して少しアレンジを加え、ガイダンスでいつも使わせていただいている(感謝)。
指の先に、何があるか
指差すという行為は面白い。指が指す方向には何かがあるけれど、その指を逆に辿って、腕 → 肩のあたりまで行くと、その先がすっぽり抜け落ちてしまう。まぁ、自分の場合はメガネのフレームのようなものがぼんやりと浮かんではいるが ...
腕、その先にある手・指が本来どこから伸びているか、というのを直接的・体験的に知ることはできないのだと気づいて、ちょっと驚いたりする。
自分を指差してくださいと言われたら、大抵の人は体を指差すだろうと思う。頭、胸 ... どこを指したにせよ、それは認識の対象で、それを認識している自分というのは見ることができない。自分の体は見られるが、それを所有する「自分」そのものを見ることはできない。これは、理屈の上から言っても納得のいく説明であるように思えるが、いかがだろうか。
鏡に映った自分
自分を見ることができないということへの反論としてポピュラーなのが、鏡に映った自分を見ることができる、というものだ。一聴すると、もっともらしい主張に聞こえるが、鏡に映った映像は、依然として私そのものではない。あくまで、「鏡に映った映像」だ。試しに、鏡に映っている自分の体を見た後に目をつぶって、体全体の感覚を、じっと感じてみてほしい。その後、時間があったら、その感覚を絵に描いてみるといい。鏡に映った姿と、その絵にどれぐらいの差異があるだろう。実験してみてほしい。
自分がいるという感覚
自分は見れないのだと理屈ではわかっても、依然として自分がいるという感じは残る。その感覚にのみ注意を注ぐと、この感覚が「身長〇〇cm、年齢〇〇歳、〇〇という職業に就いていて ... 」という「自分」とは、ちょっと違ったものであるということがわかってくる。
この「自分がいる」という感覚と、「〇〇としての自分」を、交互に見てみると面白い。「自分がいる」という感覚は、「自分は〇〇だ」という考えがなくなってしまっても、あるもの。言ってみれば、思考に先立ってあるものだ。この「自分がある」という感じは、体の感覚でもないし、思考でもないし、何かのイメージでもない。およそ「〇〇である」とは言えないものだ。この、感覚ではない感覚に注意をじっと向けてみる。
これなんぞ?
この「自分がいる」という感覚の正体は、なんだろう?昔の中国人は「是什麼」これなんぞ? What's this? と自問した。「〇〇だ」「いや△△だ」と、いろいろな考えが出てくるだろう。だが、考えはあくまで考えであって、「これ」そのものではない。しばらく、いや出尽くすまで、すべての考えを出てくるままに放っておくと、残ったのは、やはり名前のない「これ」だけだった。
実験の手順
以下、今回のテーマに関する実験の手順を記すので、チャレンジしてみてほしい。
① 自分を指差す
② 指の先にあるものに注意を向ける
③ そこにあるものに対して、「これはなんだ?」と自問する
④ 答えが出尽くしたところで残るものに、注意を向ける
⑤ ③と④を繰り返す
雑記
マグリットの絵は、著作権フリーになっていたのですね。この記事に使いたいと思っていて調べたら、その情報を発見。ありがたく使わせていただいた次第です。
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