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パセリのような文章を書きたいと思った理由

職業病だろうか。だれかに言葉を発したり、どこかに文章をしたためたりするとき、「役立たずな文章」を書いてはいけないような、そんな呪縛を感じてしまうのだ。

あなたのスイッチを押すブログ」を書き続けて、かれこれ10年にはなる。

きっかけは「誰かの役に立ちたい」だった。バカの一つ覚えのように、ただただ誰かに必要だと思われたくて、気がつけば記事の数も1,000を超えいた。」を書き続けて、かれこれ10年にはなる。

## 誰かの役に立たなければ

きっかけは「誰かの役に立ちたい」だった。バカの一つ覚えのように、ただただ誰かに必要だと思われたくて、気がつけば記事の数も1,000を超えいた。

10年経った今も、最初にキーボードを叩いた日の気持ちを持ち続けられている自分に、すこし驚いている。まだまだ自分は「誰かの助けになれた!」という実感を欲しているのだ。

だから自然と、私は言葉に「人の役に立つかどうか」を求めてしまう。

「このイヤホンおすすめですよ」と書くだけでは駄文。そこに「なぜなら…」という理由が付いて、はじめて良い文章となる。

「こんなことを感じたんです」と書くだけでは駄文。そこに「そこから●●を学んだんです」という結論が付いて、はじめて良い文章となる。

僕が書く文章には、宛先が必要だった。見知らぬ誰かのことを想って手紙を書くことが、僕に求められていることなんだと、そう思っていた。

ただ最近になってすこしだけ、心境に変化があった。エッセイを書いてみたい。そう思うようになっていた。

## 自分の文章になかったもの

きっかけは、大泉洋さんのエッセイ本だった気がする。そもそも大泉洋さんが大好きだったので、そんな憧れの人が普段考えていること、感じていることとはなんだろうと、気になったのだ。

僕は大泉洋にはなれないけど、大泉洋の中に入っていって、その目から世界を見渡してみたいと思った。

笑った。しこたま笑った。そして、言葉の力を改めて感じた。

言葉だけで、人をここまで笑顔にできるものなのかと思い知った。自分が書き続けてきた1,000の記事の中に、人に笑顔を与えられる言葉はなかったと思う。

次に僕が憑依先に選んだのは、星野源さんだった。

生死の境をさまよい、生還し、そして大きく羽ばたいた。そのご活躍は、誰もが知るところだろう。最近は新垣結衣さんとのご結婚という、日本全国朗らかニュースもあった。

そんなご活躍を意に介す様子もなく、ディスプレイ越しにみる源さんは、いつもひょうひょうとしていて、自然に、あるがままの姿で人生を楽しんでいるように見えた。

そんな星野源さんの文章は、情緒に溢れ、情景と心情が上手に折り重なった、優しいものだった。人の心をこんなにも "ふんわり" させられるのかと、改めて言葉を力を思い知った。

## "ある" ことに意味がある

お二方の本を読んでも、「人生が豊かになるメソッド」もなければ、「明日から役立つ生活の知恵」もない。「笑いの極意」や「アーティストとして成功する秘訣」も手に入らない。

誰かの役に立つものとして書いたわけではないと思う。自分が見聞きしたものを、文字として書き起こす。それがエッセイだ。

役に立たない文章は、必要とされていない。僕の理論ではそうだった。

けれども、少なくとも35歳のこの男の心は、二人の言葉に揺れ動かされた。役に立たないと思っていた文章に心を打たれ、一人の男の今日の行動を変えたのだった。

書き手が自ら、文章に意義を与える必要なんてない。

ただ純粋に書きたいことを書いて、そこから何を得るかは読み手に委ねてもいいのだ。そう思えたら、文章を書きたくてたまらなくなってしまった。

だから僕も、意味のない文章を書いてみたいと思い、この文章を書いている。

この文章に、学びも教訓もない。ただただ僕が感じたことを、あるがままに事実として書き連ねているだけである。

自分が感じたこと、思ったこと、心動いたもの。触れた感触、吸い込んだ匂い、目にした情景。

そこに意味なんてない。ただ僕の目から見えた世界を言葉にしたものだ。しかしそんなものの中にも「面白かった」「笑えた」と感じてくれることだって、あるかもしれない。

役には立たなかったかもしれない。
しかし、人のためになった。

そんな文章を書いていこうと思う。誰かの人生に、添えられたパセリのように。

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