哲学対話2
津市の育児相談室で、哲学対話体験会を開催させてもらった。
私も含めた5人で開催。
ファシリテーターとして、学びになったこと。
ものの見方が変わったな、と感じた事を、忘れないうちに書いておく。
知識と経験の区別
対話の中で出た問い。
『給食で出た麻婆豆腐を美味しいって子どもたちが言ったから、同じレシピで作った。でも子どもたちは「味が違う」って言った。何が違うんだろう?』
確かにね。何が違うんだろう?
この問いに対して
『大きな鍋で作ると、火力も違うし。やっぱり違うんだよ。』
と答えてくれたのは、ひとりの参加者だった。
なるほど。でも…
ファシリテーターとして、何かが引っ掛かった。
結局答えが出ないまま対話は終わった。
帰り道、カーシェアした車を運転しながら考えていると、こんな考えがおりてきた。
『ああ【彼女は大きな鍋で作る】を、自分で経験したのかな?それとも【テレビとかで聞いた話】を喋っただけだったのかな?』
ここが分からなかったんだ、と気付く。
私は『大きな鍋で作る』を経験したことがない。
けれど『大きな鍋で作ると美味しいらしい』と、知識で知っているだけだったんだ。
彼女らの問いと答えに、自分を見つめ直す切っ掛けをもらった。
自分が頭でっかちになっているのは、自分ひとりでは気付けない。
『私は大きな鍋で大量調理をしたことがない』
これからは堂々と言える。
未経験なことは、悪いことではない。
何が自分を頭でっかちにする?
私の中では二つの感覚があった。
どうしてこうも、自分が経験したことのない事を、あたかも経験したかのように言えるのだろう?
もしくは、なぜ『経験したことがない、と言ってはいけない』という強迫観念に駆られるのだろうか?
年齢を重ねると『それくらい知っていて当然だろう』と思われる事が増えていく。
だから同年代が経験していそうな事は、何となく知っていないと『変と思われる』。
と思うのかもしれない。
しかし、それでも私の疑問は解消されない。
そこでたどり着いたのが
『相手の立場に立って考えよう』
という言葉だ。
想像しすぎも身体に毒
『相手の立場に立って考えよう』
この言葉に従順になって、相手の事を想像し過ぎているのかもしれない。
想像しても分からないことはいくらでもある。
想像力豊かな人や、賢い人ほど、この罠に陥りやすいのかも知れない。
不思議なことに、この言葉を直接言われたことはない。
言われていないなら、いいや。
もし『相手の立場に立って考えよう』と、本当に言ってくる人がいたら、こう言ってやろう。
『あなたこそ私の立場に立って考えていますか?』
ま、口が裂けても言わないけどね。