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13. アボリジナルの人々が共通してディジュリドゥを表す言葉「Bambu」

インドネシア語の「Bambu」と英語の「Bamboo」

アボリジナルの間では共通してディジュリドゥを意味する言葉として「Bambu」が使われ、トップエンドのいろんな地域でディジュリドゥを「Bambu」と表現するのを耳にしたことがあります。

この「Bambu」という言葉がなぜトップエンドのアボリジナルの人たちの間で共通してディジュリドゥを意味する言葉として使われるようになったのか。1900年代初頭までディジュリドゥの素材の中心は竹だったと考えられていることから、2つの可能性を感じました。

[Elymannの竹のディジュリドゥのスケッチ]ドイツ人の民俗学者Erchard EylmannがTenant Creekで1908年に描いた竹のディジュリドゥ。素材は学名Bambusa Arnhemicaと呼ばれる竹で、マウスピースはジョイントして蜜蝋でかためてあります。

一つは、16世紀から1907年まで続いたと言われるインドネシアのマカッサンの人々との交流から、「Bambu」という「竹」を意味するインドネシア語からの借入語と考えるのは歴史的にも、インドネシア語の「竹」と同一スペルが採用されている点からも妥当性を感じます。

もう一つは、オーストラリア北部の初期入植者のイギリス人が、竹でできたディジュリドゥを見て「Bamboo」と呼んだことがアボリジナルの人々の中で「Bambu」に変わっていったと考えても不自然ではないかもしれません。

いずれの場合であったとしても、どのような経緯で「Bambu」という言葉が広大なトップエンドに広まり、アボリジナルの人々の間でディジュリドゥを意味する言葉として共有されていったのかは定かではありません。


ディジュリドゥ奏者はBambuman

北東アーネム・ランドでヨォルングと一緒に時間を過ごしていると、楽器を指し示す時にはYidakiという言葉を頻繁に使い、Bambuという言葉が使われるのは少ない印象でした。でも彼らがバランダ(ノンアボリジナル)に話かける時、ディジュリドゥ奏者という言葉を表現するのにYidakimirriというヨォルング語以外にも、Bambumanという言葉を頻繁に使っている印象でした。

これはヨォルングの人々がバランダと会話する時に、「Yidakiという言葉は知っているだろうけどYidakimirriという言葉は理解しないんじゃないか」という憶測を持ってバランダと話をしているからじゃないかと思うんです。多言語の環境で生活する彼らにとって、他の言語グループと会話をする際には常にこういった「スイッチできる言葉」をうまく活用するんじゃないかと推測します。

[Matamata Road]未舗装2車線のセントラル・アーネム・ハイウェイからそれたマタマタ・ロード。高低差があって整備があまりされていない1車線のダートロードを運転するのはかなり手慣れていても怖い。車で走っている途中で「あっ、あれイダキ!」と言って、車を止めて木をカットすることも。

このようにディジュリドゥを意味する言葉としてトップエンドのアボリジナルの人々の間で共通してBambuが使われます。このnoteのタイトルをBambumanにしたのは、Didjeridu/Didgeridooという白人が作った言葉よりも、アボリジナルの人たちが共通して使うBambuという言葉に寄りそいたいと思ったからでした。

あと彼らがBambumanという言葉を使う時、なぜか「いけてるディジュリドゥ奏者」、あるいは「ひとかどのディジュリドゥ奏者」っぽいニュアンスを毎回感じます。なによりDidjeridu playerよりも短くて発音しやすい!


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