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自己紹介

柴田竹思(しばたたけし)。Webデザイナー/フロントエンジニアとして活動後、フリーランスのWebディレクターへ。愛知県出身、神戸とベトナムの二拠点生活中。一児の父で奥さんはベトナム人。

フリーランスになって12年(2024年時点)。官公庁から個人店舗まで、様々な規模・業種のWeb制作案件に携わる。関西圏を中心に日本全国対応。

以下にライフログとして、これまでの人生(略)をまとめてみます。

生い立ち

小学生くらいまでは授業中は恐竜とロボットの絵を描き、放課後はサッカーに明け暮れる子どもでした。

絵を描くことと文章を書くことが好きで、教師が勝手にエントリーしたコンクールで何かの賞をとったりということが度々ありました。
褒められるのは素直に嬉しかったですが、その度に全校集会で表彰されなくてはならず、人前に出るのが嫌いな僕はそれが憂鬱でした。

またクリエイティブな才能があったと言うわけではなくて、何となくですが「大人ってこういうのが好きなんだろうな」と考えて、それに寄せて描(書)いてみたら案の定だった、みたいな感じです。生意気かつマーケティング思考な子どもでした。

中学1年の頃に「期末試験で学年10位以内に入る」という親との約束を果たし、タカミネのアコースティックギターを入手。スピッツの名曲『ロビンソン』のイントロをひたすら弾き続ける日々を送っていました。

音楽でプロになることを目標に生きていましたが、大好きな祖母が悪い人たちに騙されて財産を失うという経験をし、「大切な人を守れるくらいお金を稼ぎたい」と思うように。
それをきっかけに自分でビジネスをする方法を模索し始めました。

日本縦断

「自分の商売をしたい」とは言うものの、世間知らずの音楽少年かつサラリーマン家庭で生まれ育った僕には、何から手をつければいいのか見当もつきませんでした。

悶々とした日々を過ごすうち、「世の中がどんなもので、どんな仕組みで動いているのか見てみたい」と考えるようになりました。

そしてアコギ一本持って、まずは日本縦断一人旅へ。
日本最北端・北海道の宗谷岬からスタートして、路上で歌いながらヒッチハイクやローカル線を使って南下していきました。3ヶ月くらいかけて広島まで辿り着きました。

口座に入っていた15万円を持って出発しましたが、わりと早めに底をつき、行く先々で知り合った方々にご飯を食べさせてもらったり、家に泊めてもらったり、次の目的地へ送ってもらったりと散々お世話になりました。

カナダでワーホリ

日本縦断後はフリーターしてお金を貯め、ワーキングホリデービザでカナダへ。最初の1ヶ月のみトロント、その後はビザ切れまでカルガリーで生活していました。

日本食レストランで働きながら、バスカーパーミット(路上パフォーマンス許可証)を取得して路上で歌ったり、パブで弾き語りライブさせてもらっていました。

毎年夏にカルガリーで開催されるライラックフェスティバルでも野外ステージで歌わせてもらいました。

パブでのライブ風景。
照明暗くてこんな写真しかなかった。

世界最貧国シエラレオネ

ワーホリビザが切れるタイミングで、世界最貧国とされる西アフリカのシエラレオネへ渡りました。

カナダ滞在中に連絡をとっていた方の親戚の家でホームステイさせてもらいつつ、現地の小学校で校庭の整備をしたり、子どもたちの給食用の畑を作ったりという作業を手伝いました。

ほぼ毎日、子どもたちに混ざってビーチサッカーに明け暮れ、ハットトリックを量産しました。

またクリオという現地語の歌を教えてもらい、ステイ先の庭で歌っていたら50人くらい集まってしまい、図らずもゲリラライブ成功でした。

中学の頃は音楽で生きていくことが夢だったので、言葉も通じない外国で、自分の歌と演奏が受け入れられたのが嬉しかったです。

シエラレオネでお世話になったアルフレッドと。
髪はアルフレッドのお姉ちゃんに編んでもらった。

Webデザインとの出会い

帰国後は東京に住み、会社員(営業職)として働き始めました。
副業でシエラレオネのことを知ってもらうためのWebサイトと、グッズ販売の収益を寄付するためECサイトを立ち上げました。

予算が冗談みたいになかったのですべて自分でやるしかなく、Webデザインの独学を始めました。
デザインはGimpというフリーソフトで、コーディングはメモ帳に手打ちというストロングスタイルでした。
WordPressがたしかVer.2.Xとか3.Xになるか… くらいの時期だったと思います。懐かしい。

一度目のフリーランスデビュー【失敗】

Webデザインを勉強していましたが、何を血迷ったか、営業の仕事を辞めてフリーランスとしてデビューしました。もちろん、金なし・コネなし・経験なしです。

売り上げを作るのに必死だったので、とりあえず営業に奔走する日々でした。でも自分のスキル・経験に自信がないことが透けて見えるので、なかなか依頼はもらえませんでした。
なのでWeb制作に限らず、書類整理とかダイレクトメールの封入とかいろんな仕事を引き受けたり、日雇いバイトなんかもやっていました。

生命線だった業務委託の仕事が3.11の影響で途絶えてしまい、あえなく廃業、地元に戻りました。

期間工しながら再起をはかる

地元が自動車王国なのもあり、自動車工場の期間工として働き始めました。
こんなこと言ったら絶対誰かに怒られると思いますが、就業前の健康診断とか、これから刑務所に入る囚人みたいな気分でした。

ただ「期間を決めて手っ取り早くお金を作れる(体力さえあれば)」という点が当時の僕にとっては魅力でした。あと他にあんまり選択肢もなかったですし。

ということで期間工で再起のための資金を作りつつ、デジハリ・オンラインスクールを受講して穴だらけのWebデザインスキルの底上げを目指しました。

工場の仕事後に課題を進める生活だったので体力的に結構キツかったですが、なんとか期間満了&デジハリ卒業しました。

二度目のフリーランスデビュー!【今度こそ】

期間工で貯めた資金を元手に、ちゃんとしたPCを手に入れて二度目のフリーランスデビューです。

Adobe製品はデジハリ生は学割で手に入れることができたので、そのときにゲットしたのを引き続き使うことができました。
当時はまだFlashでアニメーションを作成する仕事が結構あり、FlashとWordPressのおかげで飯を食えていたように思います。

とはいえ一度目と同じ轍を踏みたくないので、営業をガチりました。
思いつくものは手当たり次第に試して、取引していただけるクライアントを少しずつ開拓していきました。

憧れの地・神戸へ移住

実は日本縦断一人旅をしていたときに、A面(三宮とか元町とか)/B面(新開地とか湊川とか)が共存している感じとか、大都市すぎないちょうどいいサイズ感とか、国際色豊かでレトロな感じとか、海と山を気軽に楽しめるところとか、何より人の優しさ・温かさに触れて神戸が大好きになりました。

それに加えて大阪出身の友人にもすすめられ、「いつか神戸に住みたい」と考えていました。
事業が少〜しだけ安定してきたこと、またクライアントが関西圏に集中していたこともあり思い切って移住を決めました。

住居兼事務所は山側にあるマンションの屋上で、古かったけど遠くに海が見渡せ、夏にはベランダから花火大会を見ることができるお得な物件でした。
また夕方になると神戸港(たぶん)に停泊している船の汽笛が聞こえたりして、愛知の海からも山からも遠い土地で育った自分には新鮮でした。

神戸移住とともに大きな案件がいくつか決まり、「やっと一人前のWebクリエイターへの、取っ掛かりくらいは掴めたかも」と思えるようになりました。

図らずもWebディレクターデビュー

神戸へ引っ越して間もない頃、大阪のWeb制作会社からの業務委託が決まりました。
単一の案件ではなく、その会社が受注した案件を複数抱えてディレクションするというような仕事内容でした。

それまでデザイナーとかコーダーのポジションでしか案件に関わることがなかったため、未経験からのWebディレクターデビューとなってしまいました。
自分としてはもっと制作の経験を積んでからディレクターへ… というようなキャリアを思い描いていたのですが、そうそう自分に都合よく運んではくれないなと思いました。

ただ「自分、駆け出しなんで…」なんて言い訳したくなかったので、Webディレクションに関する本を読み漁ったり、SNSとかで見つけた現役のWebディレクターの方にお話を伺ったりしながら仕事を覚えていきました。

「もっと、こうしておけば…!」と悔しい思いをすることも多々ありましたが、この時期の経験は今の自分の基礎になっているものだと思っています。

大手企業・長期プロジェクトへの参画

Webディレクションの仕事に慣れてくると、同時に抱えられる案件数も増えてきました。
そのため、複数の取引先との間でWebディレクター、Webデザイナー、フロントエンドエンジニア、SEOライターなど様々なポジションでお仕事させていただくような形で活動していました。

またこの頃は営業の外注化も模索していて、いくつかの法人・個人に営業を委託していました。
その中で国内シェア2位の衣料品チェーンの長期案件や、テレビCMなどでよく見かける製薬会社の案件などを受注することができ、大規模案件での動き方などの経験も積むことができました。

案件規模が仕事の価値に直結するとは思っていませんが、いろんなスケールの案件の中で、一定の評価を受けながら完走できたことは大きな自信になりました。

余談ですが、この頃は複数案件にいろんなポジションで参加していたので、心身ともにビジー状態で、仕事以外のことに構う余裕がまったくありませんでした。
食事は適当で慢性的な睡眠不足、ストレスでタバコをひっきりなしに吸うような生活でした。

今でもよく覚えているのは、年末年始の特売に向けてキャンペーンサイトを制作しているときに体調を崩してしまい、病院で点滴を打ってもらいつつ大量の商品画像を泣きながら切り抜いていたことです。

仕事の面では成果を出せた時期ではありましたが、健康や私生活など、その他すべてを犠牲にした上でのものだったので、「長くは続けられないな」と強く感じていました。

「誰と働くか」にこだわった

自分でも「偉くなったもんだ」と思いますが、さすがに心も身体も限界を感じ始めたため、少しずつ仕事量を調整するようになりました。

はじめに手を入れたのは、取引先を含めた人間関係の見直しです。

今ではよく身に染みて分かっていますが、「どれだけ稼げるか」と同等以上に、「誰と働くか」が重要です。

むやみに他人を傷つける言い方をせず、相手を尊重し、お互いの立場を慮ることができる人と働けるのは、報酬や待遇だけでは量れない価値があります。

ということで、この時期は新規開拓は積極的に行わず、今ある人間関係の質を高めていくことを意識していました。

年単位で時間はかかったし、全体の仕事量は減りましたが、以前とは比較にならないほどストレスは少なくなりました。

今でも仕事をする上でこの考え方は大事にしていて、自分が好きになれる相手とどうすれば長く付き合えるかは、いつも試行錯誤している気がします。

なぜかベトナム

話は前後しますが、仕事量を調節し、少しだけ気持ちに余裕が出てきた頃、ちょっと気軽な旅行にでも出てみようと思い立ちました。

そして「どうせなら縁もゆかりもない場所へ」ということで、知識も興味もなかったけれど、ベトナムに行くことにしました。
旅の目的が「ゆっくりする」だったので、行き先は本当にどこでもいいと思っていました。

はじめはホーチミンに滞在していましたが、あまりに五月蝿すぎて地方の街にいくことにしました。
それでホーチミンからバスに乗って2時間くらいの海沿いの街を訪れたのですが、今度は何もなさすぎて、一日中コーヒーを飲みながら砂浜に座って本を読んでいました。

そんな風に数日過ごしていると、一人の女性に「あなた何日もここにいるけど大丈夫?」と話しかけられ、「やることがない」と言ったらバイクを飛ばして地元の人しか知らないようなお店や穴場スポットへ連れ回してくれました。

今はその人と結婚しているわけですから、人生分からないものです。

子育てモード全開

結婚してすぐに妊娠が分かったのですが、4ヶ月頃に異常が見つかりました。その後もトラブル続きで妻は絶対安静。何かあったときのために病院近くに引越し、出産に備えました。

そして予定より1ヶ月半ほど早く、息子が産まれました。しかし、やはり息子は先天的な病気を持って産まれ、誕生後4ヶ月は入院生活が続きました。

息子の入院中は世話のため仕事をセーブせざるをえず、取引先にはとてもご迷惑をかけたのですが、「無理しなくていいから」と調整していただきました。今でも本当にありがたく思っています。

また退院後も通常よりも衛生面や食事面で気をつける必要があり、また妻は身体が丈夫な方ではないので、ここは体力バカの僕がやるしかないということで毎日2〜3時間睡眠で頑張りました。なんかずっと頭痛かったのを覚えています。

ちなみに息子は今では完治しており、他の子と変わらず元気に育っています。よかった。

息子と。小さい方が息子で大きい方が僕です。

乳児期・幼児期をすぎて、息子は小学生になりました。
以前に比べれば手がかからなくなったので、また徐々に仕事の方に比重を移し始めています。

元々はできるだけ早く法人化して、事業をどんどん大きくして… なんて野望を持っていたのですが、息子の病気がわかった瞬間から自分にとって大事なものの順番が入れ替わった感じです。

そもそも結婚するつもりも、ましてや子どもをほしいとも思ったことがない人間がこうなるんですから、人生分からないものです(2回目)。

これから

これまで紆余曲折ありながらも、クリエイターとして生きてきました。

周りの人たちも、職種は違えど、作ることを仕事にしている人が多いです。

彼らと時間を共にしてきて感じるのは、クリエイターは制作(製作)に没頭するあまり、ビジネスを忘れてしまう人が多いということ。

個人的にはそういう種類の人間は好きなのですが、やはり「お金を稼ぐ」という点においては不利であることは否定できません。

幸運にも僕自身はクリエイティブとビジネスを紐づけて考えることに抵抗がないというか、ある程度は距離をとって制作と向き合える人間です。

営業も得意ではないですが、それ以上に、「自分の得意なことで他人を助けられる(かもしれない)」というところに、ワクワクを感じることができます。

なので僕はこの性質を、さらに有効活用しようと最近、思うようになりました。

もっともっと人の輪を広げて、事業者とクリエイターをつなげる仕事をしていきたいと考えています。

この先どんなに世の中が変わろうと、クリエイティブが不要になることはありません。

頭の中にどれだけ素晴らしいアイディアがあったとしても、手を動かさなければ形にはなりませんからね。

だからクリエイターって、本当に重要な仕事だと思うんです。

でも日本ではクリエイティブ職って軽く見られがちだし、またクリエイター側にも自身のスキルを安売りしすぎる人が多いため、評価や待遇が正当とは言い難い現実があります。

僕個人があがいたところで、世の中が劇的に変わることはないでしょう。

それでも自分の周りの人くらいは、それぞれの仕事に誇りを持って、それぞれのクライアントを幸せにできるような仕組みや人の輪を作っていきたい。

そのために今は、人と会う機会を増やしたり、アウトプットを増やしたりということを始めています。

自分と家族と仲間とクライアント、そしてこれから出会う人。みんなでより幸せになれるよう、まだまだ頑張ります。


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