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世界の見方と数字の力


世界の見方と数字の力

子供の頃、りんごが1つ、みかんが2つといった簡単な数の概念でさえ、どこか納得がいかないことがありました。

確かに「りんご1個」という表現はわかりやすいし、それを使って合計を計算することもできます。

けれども、もしその「1つのりんご」が複数の細胞から成り立っているのだとしたらなぜそれを「1つ」と数えることができるのか、という疑問がずっと頭の片隅にありました。

人間が現実を理解しやすくするために作り出した抽象的なツール=数学

大人になってから、数字や数学が実際の世界ではなく、人間が現実を理解しやすくするために作り出した抽象的なツールであると気付きました。

0や1という数字は、物理的に存在するわけではなく、私たちが世界を認識し、計算し、操作するために用いる仮想的な概念です。

これが分かって初めて、「数字」というものの本質を理解できた気がします。
数字は私たちが物事を簡略化し、把握しやすくするために使う道具であり、その道具のおかげで私たちは現実世界を効率的に理解し操作することができているのです。

こうした理解に至ったとき、数学や数字が全てを説明できると信じる人々がいることにも納得がいきます。
理系の分野で働く多くの人たちは、論理や数字、そして理屈を非常に重要視します。
そのおかげで私たちの文明はこれほどまでに発展し、数々の問題を解決することができました。

しかし、それでも数字や数学的思考を唯一の正解とするのは、どこか視野が狭いように感じます。
世界を理解するためには、確かに数字や論理が強力なツールであることは間違いありません。
ですが、それだけが真実ではありません。
世界の見方は無数にあり、それぞれの見方には得意不得意があるのです。

私たちが世界を捉えるためのツール

私たちが世界を捉えるためのツールは、数字や数学以外にも多く存在します。
言語や感覚、文化、芸術などもその一部です。

例えば、感情や直感は、数字では説明しきれない側面を持っています。
(出来なくはないですが、少なくとも向いてはいないでしょう)

それらは私たちが他者と共感し、理解し合うために不可欠なものです。
そして、それこそが人間らしさを形作る大切な要素ではないでしょうか。

こうして考えると、完全な客観性を持つことが人間には不可能であるということが自然に理解できるようになります。
私たちが現実を完全に把握するためには、どうしても物事を簡略化しなければなりません。

そして、その簡略化された理解が、私たちの行動や意思決定を支えています。

例えば数学的見方は非常に強力であり、今のところ私たちが持つ最も効果的な考え方の一つです。
しかし、それがすべて、ではありません。

他の視点や方法も重要であり、それらを組み合わせることで、より豊かで包括的な世界の理解が可能になる、という視点も必要だと私は考えます。


私は、人に「あなたには世界がどう見えていますか?」と尋ねてみたいと思うことがよくあります。

もちろん、そんな質問を投げかけられたら多くの人は戸惑います。

しかし、皆がそれぞれ色々な見方で世界を認識している、と考えている社会ならより相互理解が深まるのでは無いか。
そうした対話を通じて、私たちの個人個人の世界に対する理解がさらに深まると私は夢想しております。

人間は、全知全能の神には程遠く及ばず、
あらゆるものを完全に理解することはできない生物であり、だからこそ各人が己の世界観を持ち得るのでしょう。

だから互いに理解出来ないし、だから互いに興味を持てる。
願わくば互いに違う世界が見えている人間であると認識した上で、相互理解を深められる人間でありたいものです。

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