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「報道の自由」と「報道の責務」

 こんなことを書くと「またそんなことばかりいって」と呆れられるかもしれません。しかしながら、それが故の馬鹿な奴の意見とご容赦ください。

 2020年5月9日付の産経新聞の「産経抄」を読みますと、つくづくマスコミの無責任さを感じるのです。この記事には、ある医師が、コロナウイルスに関してマスコミ(某新聞社)から取材を受けて話したことが、部分的にのみ報道され、一番重要だと主張したことがすべて削除されており、真意と逆の報道がなされたということが紹介されていました。

 そんなことあるのか、と思われるかもしれませんが、実は私も身に覚えがあります。私も過去にマスコミの取材を受けたことがあり、そのときのことを思い出すと「取材した一部分しか報道していなくて、取材を受けた者の主張を無視する」という出来事はマスコミ全体に発生する問題だと思います。

 私がマスコミの取材を受けた時は、取材記者は読者の興味を引くような事案のみを質問し、擁護するような回答には非常に嫌そうな顔をしていたことを今でも思い出せます。記者の思った通りの回答を引き出し、意に染まない回答は無視するという態度が明らかでした。そして、私が小物であったからでしょう、記事は事実のみ述べられ、私の発言は削除されました。

 馬鹿な奴は、マスコミ報道について事実を報道するならば取材した者から見聞した全部を書くか、書いた後その内容について取材した者の確認を取るべきなのではないかと思います。

 そうそう、5月8日のTBSテレビの「中居正広のキンスマ」で三浦祐太朗の話がありました。この中で、マスコミ、この場合は主に芸能関係者だと思うのですが三浦家のプライベートを平気で侵害していたとの話がありました。「報道の自由」を名目に、「有名人」と認定すればその者あるいは家族のプライベートを明らかにすることが義務だと考えているのでしょう。これもマスコミの問題だと思います。

 民主主義には、種々の自由が保障されています。国、国民、マスコミ等が言論の自由、報道の自由を守っていかなければならないことは自明の理で、これを守ること、守らせることは極めて重要・大切なことです。けれど、ここで考えなければならないことは、これらの自由が国民に与えられていることの裏を返せば、それに伴う義務が発生するということです。

 事実を明確にし、この事実について如何に考えるのかの意見を発表することは言論の自由です。しかしながら、事実の一部しか発表しないで、取材記者の意見を前面に出すことは、取材を受ける者の言論の自由を奪っていることにはならないでしょうか。言論の自由を守ってほしいと一番強く主張する者が、守るに際して行わなければならない義務を平然と破っていては、これらの自由を自ら放棄していることになります。最近のマスコミは、「事実の報道」と「マスコミの主張の報道」とを区別しないで、混合して報道しているようにしか思えてなりません。混合して報道することによってマスコミは、取材される者の意見を封じて自己の主張を誘導しているようにしか思えてなりません。

 どうか言論の自由、報道の自由を守るために、マスコミの方々には今一度考えていただきたいものです。またまた、馬鹿な奴の自分勝手な主張、ごめんなさい。

(この原稿は5月9日に執筆されました)

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