「間合い」よりも「ソーシャルディスタンス」がいいなぁと思うワケ

こういう状況ですから、色々な場所やメディアで「ソーシャルディスタンス」という言葉が聞かれます。それと一緒に、「日本なんだから『間合い』『距離』って言葉を使えよ」というご意見も耳にします。

英語の混ざった話し言葉は、“意識高い系”として以前から揶揄されてきました。かくいう私も「アグリーですね」なんて言葉を聞いたら、「???」となって、言葉が出てこなくなりそうです。「同意見です」とかでいいよね。

ただ、この「ソーシャルディスタンス」は標語、あるいは、ある意味での“合言葉”として使われるべき言葉です。感染を防ぐため、お互いに距離を取る意識を社会全体で共有するための言葉。私はコピーライターではないのですが、そうした言葉には、一種の特異性が必要なのではないでしょうか。

特異性とは、文字通り他の言葉と違う言葉だったり、独特のリズム感だったり、響きだったり。そう考えると、「ソーシャルディスタンス」って(英語でできているとはいえ)これまでにない言葉ですし、ちゃんと目立っているんですよね。

「距離を取る」「間合いを取ろう」だと、物理的もしくは精神的に、日常にあふれている日本語の中に埋もれてしまいそうな気がしませんか?

もうひとつ。これはもしかすると日本独特のことなのかもしれませんが、「ソーシャルディスタンス」自体は名詞ですが、この言葉の裏に「人と人との間をあけてね」という意味合いがあります。「あけてね」という依頼でも「あけろよ」という命令でもどっちでもいいんですが、要は他者への働きかけです。

他者に働きかける言葉って、自身で思っている以上にセンシティブなものです。私はよく「刃物を渡すときは柄を向けてわたすように、言葉のパッケージングをしよう」って話をするんですが、他者に働きかけるはずの言葉も、ちゃんと考えてわたさなければ、受け取ってもらえなかったり、傷つけてしまったりしてしまう。

たまに「○○と××はセットだろ」ってポスターを見かけるんですが、あれも見るたびに嫌だなぁと思います。正直なところ、乱暴で品がないなって印象を受ける。私に呼びかけているわけではないのでしょうけれど、パブリックに掲示された言葉は誰にでも届いてしまうものです。

「間合いを取ろう」ならまだしも、だんだんエスカレートして「距離を取れ」みたいな強い言葉をあちこちで見かけるようになったら、それは息苦しいだろうなと思うのです。キツい言葉は、目にするだけでも「うっ」ってなっちゃうから。

そういう意味では、「距離を取れ」という意図を裏側に収めながら手元に届く「ソーシャルディスタンス」って、優しくていい言葉だなぁと思うのです。

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