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【エッセイ】あちらのお客さまから

一度でいい。“あちらのお客さまから”をしてみたい。映画で見るようなあれを。

そこは繁華街の喧騒がかろうじて聞こえる、裏通りに溶け込むように佇むバー。狭く薄暗い店内には横長のカウンターとスツール、いくつかのテーブル席が設えてあり、耳を優しく撫でるような音量でジャズが流れている。

さまざまな銘柄のハードリカーが壁際の棚を美しく彩り、カウンター内でシェイカーを振っているマスターが、不安げに入ってきた私を見て、心得顔で軽く会釈をする。言葉は一切交わさない。必要がないから。

それからカウンターの一方の端に目をやると、横顔に憂いを滲ませた唯一の先客が、ウイスキーをロックでちびちびと飲んでおり──とまあ、こんな感じで、“あちらのお客さまから”を実現させるにはまず、こういったシチュエーションに遭遇しなければならない。そもそもバーで一人飲みする習慣のない私にとって、こいつは極めてハードルが高い前提条件だ。

そういうわけで、私が映画のような“あちらのお客さまから”をできる機会は、おそらく一生訪れないだろうと半分諦めながら生きてきた。

が、先日近所のラーメン屋に入ったとき、ふと思った。あれっ、ここなら“あちらのお客さまから”できるんじゃね? と。

冷静に考えると、見慣れた街のラーメン屋は意外なほど、“あちらのお客さまから”をするための場としてバーに似通っている。

まずは横長のカウンター。たいていのラーメン屋には六人掛けくらいのカウンター席が設えてある。よってクリア。そして昼食どきを避けて入れば、カウンター席にもう一人だけ客が座っていることも珍しくない。これもクリア。

次に雰囲気。さすがにハードリカーは並んでいないが、日本各地の観光地で買ったとおぼしき提灯のコレクションで飾られたラーメン屋なら知っている。また、ジャズの代わりに昭和の歌謡曲が流れていたとしても、大切なのはその心意気であろう。よってクリア。

そしてマスターはいないが店長はいる。シェイカーは振らないが、麺を湯切りするための“ざる”を振るう。これまたクリア。

近い。近くないか、これ。

ひょっとしてラーメン屋なら、“あちらのお客さまから”できるんじゃないか。

そのことに気づいた私は注文したラーメンを待つ間、それなりに賑わう店内で、一人静かに興奮しながら震えていた。

ただ、根本的な問題がひとつある。それは取りも直さず、そこがラーメン屋であるということだ。そこで“あちらのお客さまから”を実践した場合、おごられる対象者は必然的に、ラーメンをもう一杯食べることになる。

すでにラーメンを食っているところへ、もう一杯のラーメンをおごられた場合、それがたとえ無償であっても、人は喜ぶものだろうか。そこからドラマは始まるのだろうか。とても始まりそうな気がしない。

だったら味を変えてみたり? 醤油ラーメンを食べていたら味噌ラーメンを、チャーシュー麺を食べていたらワンタン麺を“あちらのお客さまから”すればいいのでは? いやいや、ジロリアンでもない限り、ふつうはそんなに麺ばっか食えねえっての。つか怖いだろ、知らない客がいきなりラーメンおごってきたら。もう食ってんのに。おれならすっ飛んで逃げるわ。

と、心の中の別人格に呆れられた頃、私の頼んだラーメンが運ばれてきた。そして思う──

ま、やっぱ二杯は食えないわな。ずずず。

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