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モーツァルトのイ長調~ジュザンナ・シロカイ 『ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488』とともに~

胎教にいいモーツァルト

2、30年前のことだっただろうか?
「胎教にいいモーツァルト」といった言葉やコラムが発せられ、そしてそのCDがリリースされたことがあったと思う。
「お腹の赤ちゃんにモーツァルトを聴かせると、よい子供が生まれてくる」というわけだ。
「和牛にクラシックを聴かせると肉質がよくなる云々」も同じようなものだろう。
今、この場でそのエビデンスや科学的根拠について、何か綴るわけではない。
ただ、本来音楽を聴き分ける能力、感性がないであろう胎児や牛に音楽を聴かせ、何らかの効果が出る、というのは感覚的には理解できないわけではない。むしろ、音楽にそういう効能があるのは、音楽を聴くことを楽しみにする者からすれば、喜ばしいことだ。

さらにそこに「モーツァルトの」という言葉が付け加えられることも、よくよく理解できる。
バッハベートーヴェンブラームスマーラーを聴かせたら、生まれてきたその子の将来の性格は、それぞれ「理屈っぽい」「激情家」「気難しい屋」「分裂症気味」といった言葉で括られることにもなりかねない。
シューベルトショパンメンデルスゾーンシューマンの曲は美しい旋律に溢れているが、「気弱な子供に育ってしまうのではないか?」などと余計な心配をしてしまう。
ブルックナーだったら・・・「愛おしい変人」か・・・。

溢れ出す楽興の豊かさ喜怒哀楽のバランスのよい表出・・・。「モーツァルトの音楽が胎教にいい」と言われたら、「そうだよね」と言ってしまうだろう。
強いて言えば、人並の寿命を全うでき、貧乏にならなければよいが・・・と、少しだけ危惧するだろうか?

長調・短調 音階の話


私は音楽学者でも楽理を習得した者でもないので、理論的な説明を十全にはできない。しかし、今回のこの記事を楽しく読んでいただくためには、西洋音楽の調性・音階のことを避けて通ることができないので、かいつまんで、なるべく分かり易いようにご説明したい。

西洋音楽は12の高さの違う音でひとつのまとまり(オクターヴ・音階)があり、その音階の始まりの音(主音)と、音階の進行の仕方調性が決まる。
例えば、ピアノの鍵盤で言えば、黒鍵を一切使わずに白鍵のみで、「ド」の音から始まる音階、つまり音楽に詳しくない人でも言葉にする「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド(C・D・E・F・G・A・B・C)」は、「ハ長調(英:C-Major、独:C-Dur)」となる。
このハ長調と同じく主音を「ド」にして、3音目の「ミ(E)」、6音目の「ラ(A)」、7音目の「シ(B)」の3つを、それぞれの白鍵の左上隣りの黒鍵に変えて、つまり半音低くして音階を弾くと、「明るいハ長調」が、「深刻な雰囲気のハ短調」になる。
これと同様に、他の11音をそれぞれ主音にし、長調の進行と短調の進行で弾けば、それぞれの主音の名前が付いた調性が11音✖2パターン=22種類でき、ハ長調・ハ短調と合わせ24の調性が出来上がる、ということだ。

バッハのふたつの『平均律クラヴィーア曲集:前奏曲とフーガ』各24曲ショパン『24の前奏曲』、そしてショスタコーヴィチ『24の前奏曲とフーガ』は、24の調性すべてを使って作曲、構成された曲集ということになる。

調性格論

さて、そんな12の長調と12の短調の調性にそれぞれ性格がある、という論は昔から唱えられていた。
主音が異なるだけで、音階の仕方は同じなのに、同じ長調でも性格が違う=違ったように聞こえる、というのはどこか納得がいかない気もする。
身近な例でいえば、カラオケBOXに行ってある歌を歌おうと思ったら、自分にはキー(つまり調性)が高くて(あるいは低くて)歌いづらい。そこでマシーンのキー調整機能を使って変調して歌ったら、オリジナルのキーとどこか違った雰囲気に聞こえるのか?
「イエス」とも「ノー」とも言えない微妙なところ、と多くの方が感じるのではないだろうか?

この調性の性格の論理はバロック時代から研究されてきたものだが、簡潔に言ってしまえば、理論というより、人の感じ方イメージ、あるいは他の調と較べた時の相対的な違いによるところが大きいように思う。
また、それは人種宗教といった、音楽を聴く人間の根底にあるものに左右されるという点も見逃せない。
そして、あらゆる調性に順応できる現代の楽器と異なり、演奏上の制約、つまり運指の制約や、それぞれに出しやすい音と出しにくい音があった当時の楽器を効果的に自らの音楽に取り込むために、作曲家は調性を決め込む必要もあった。

調性格論で有名なのは、ヨハン・マッテゾン(1681–1764)、 C.F.Dシューバルト(1739-1791)、E.T.A.ホフマン(1776-1822)の論文だが、3人が言っていることは微妙に違ったりしている。そんな点からも上に記したようなことが言えるのではないだろうか?

実際にいくつか例を挙げて調性のイメージについて触れてみよう。

長調で言えば、すべて白鍵で弾けるハ長調や、2つのシャープが使われるニ長調は、長調の中でも特に明快で、隠し事がないようなイメージがある。
マッテゾンはハ長調を「かなり荒削りで大胆な性質を有している」、ニ長調を「騒ぎや楽しげなもの、好戦的なもの、鼓舞するようなものに最も適している」と述べている。
実際、ハイドンモーツァルトの祝祭を目的に書かれ、編成にトランペットティンパニーが含まれた楽曲は、ニ長調で書かれているケースが圧倒的に多い。それはイメージの問題に加え(というより)、当時のトランペットやティンパニーがニ(D)音を出しやすかったことに由来している。

3つのフラットを使う変ホ長調は、「英雄の調」と呼ばれている。
ベートーヴェンの『交響曲第3番《英雄》』、同じく『ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」、そして明らかにベートーヴェンの《英雄》に影響されたリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』の主調が変ホ長調によるところからの命名。
マッテゾンが変ホ長調を「真面目で、しかも訴えかけるような性質を持つ」と言っているのと通じる部分があろう。明らかにハ長調やニ長調とは異なる。
(「変ホ長調」は一方で「青空の調」とも言われるが、そちらについては、以前にこちらに綴っている。よろしければご笑読いただければ・・・。)

一方、短調に目を転じてみる。
モーツァルトのピアノ協奏曲傑作群の2曲を例に取ってみると分かり易い。
1985年に作曲された「ニ短調」「第20番 K.466」、翌86年に作曲された「ハ短調」「第24番 K.491」
当時、社交界で消費される音楽の中でも、もっとも花形のジャンルであり、ピアノの名手でもあったモーツァルトのすべてを表現できるピアノ協奏曲。
その意味で明るく、華やかな長調で書かれることが多かったピアノ協奏曲の世界にあって、短調で書かれていることからして異例である。
しかし、その2曲ともがモーツァルトの協奏曲、そして全作品の中でも傑作に数えられる。
同じ短調で、暗いイメージを与えるこの2曲だが、聴き手が抱くイメージは少しずつ異なる。
ニ短調の第20番は、どこか内に秘めた「怒」の念を感じる。そして、それが外に向かって爆発するような趣がある。
実際、ニ短調はオペラや宗教曲では怒りを表す時によく使われ、「怒りの調」と呼ばれている。
一方ハ短調は、バロック・古典派時代、ハ管トランペットが使用できたので、単に悲しいだけではなく、厳格でありながら悲しみを表出する、例えば葬送のための音楽などに採用される調性であった。
モーツァルトの24番の協奏曲も、格調があり、孤高なイメージがある。
「ベートーヴェンの『運命』の主調はハ短調」と言えば、その説得力は増すばかりだろう。

モーツァルトのイ長調

「胎教にいいモーツァルト」の話が出た時、中でもモーツァルトの「イ長調」の作品、さらに言えば『クラリネット協奏曲 イ長調 K.622』が最適、といった説もあった。
イ長調はシャープ3つの調で、バロック、古典派時代、様々な演奏制約を考えるとシャープもフラットも3つまでが、演奏する限界に近い数と言われていた。
例えば、100曲余の交響曲をその生涯に作曲したハイドンの作品の中で、イ長調は7曲あるのに対し、シャープ4つのホ長調は2曲、シャープ5つのロ長調に至っては第46番の1曲のみ。フラット3つの変ホ長調は10曲、4つの変イ長調、5つの変ニ長調はいずれも存在しない。

そんなイ長調、モーツァルトのよく知られて作品で言えば、『交響曲第29番 K.201』『ピアノ・ソナタ第11番 K.311《トルコ行進曲付き)』、先に上げた『クラリネット協奏曲 K.622』、そして同時期に書かれた『クラリネット五重奏曲 K.581』、そして今回この記事で特に綴りたい『ピアノ協奏曲第23番 K.488』といったところか。

何故、イ長調が胎教にいいのか?
それを調性格論的に言えば、イ長調は「幸福の調」と言われるから、ということになる。
単なる明るさや快活さではなく、どこかほっこりするような気持の解れのようなものがある。落ち着きのある明るさ・・・。
「トルコ行進曲」はソナタの第三楽章で、同主調のイ短調で始まり、テンポも速いのでそう感じないかもしれないが、第一楽章の「変奏曲」はまさに至福を感じる曲調だ。

ただ、イ長調には「長調だから」と単純には割り切れない要素も多い。
マッテゾンはイ長調を「気晴らしよりは、嘆き悲しむような情念の表現に向いている」と、まるで短調を表するような言葉遣いで語っている。
モーツァルトのクラリネットのための2作品、そして23番のピアノ協奏曲は、まさにその最も分かり易いサンプルだろう。幸福感に満たされているようで、どこか内心不安や心の揺れのようなものを感じる。

ソナタ形式・主題労作

古典派音楽の最も大きな成果は、ソナタ形式の確立であった。
ソナタ形式とは二つの異なる旋律(主題)を提示し(主題提示部)、それを展開し(展開部)、そのあと再現する(再現部)、という様式であり、これにより音楽に一定の形式(決まり事)が生まれた。その形式の中で如何に良い音楽を作り出すか?が焦点となった。
これを確立したハイドンとそれに続いたモーツァルトは、この形式で最も重要なことが「その主題(テーマ)を様々なやり方で変化させ、使い尽くして(仕事をさせて)、展開部を如何に豊かな音楽(メロディーとハーモニー)にするか?」であることを悟っていた。二人でそれを(相手の作品を意識し)切磋琢磨していた感がある。
これが「主題労作」である。
二人はその天才であり、それ故、歴史にその名を残しているのである。

その視点からモーツァルトのイ長調の作品のソナタ展開部を聴いてみると、その凄さ、イ長調という調性だからこそと思わせる「光と影」を複雑に、でもそれを聴き手にそうとは感じさせずに聴かせている事実に、改めてため息をつくことになる。
イ長調のメロディが短調に変調したり、また戻ったり、まるで人の気持ちがちょっとしたことで移ろうような感じ。
しかし、結果としては幸福感をじわっと感じるのである。
これはまるでモーツァルトその人そのもの、彼の人生そのもののように思われて仕方がない。

その見本として、是非23番の第一楽章を聴いていただきたい。
因みに第二楽章は古典派音楽としては珍しい嬰ヘ短調で書かれているが、この調はイ長調と同じくシャープ3つを要する調性で、イ長調の「平行調」ということになる。
この楽章では前楽章とは逆に、途中で長調の領域に足を踏み込む場面があり、同じく移ろう気持ちを表現しているようだ。
そして第三楽章(最終楽章)では、イ長調の旋律がピアノのみならず、クラリネットやファゴットの効果的な使い方もあり、活き活きと舞い上がる感がある。これはまさしく「幸福」である。

というわけで、「胎教にいいモーツァルトのイ長調」という説は、単純に過ぎるようにも思われるが、全体としては「まぁ、そう言われれば・・・」といった感じか?

【ターンテーブル動画】

今回、『ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488』を、ハンガリーのピアニスト、ジュザンナ・シロカイ (Zsuzsanna Sirokay, 1941- )の録音で聴いていただきたい。

バックはタマス・ブレイトネルが指揮するハンガリー国立管弦楽団。1968年にリリースされている。
シロカイのプロフィールを見ると、彼女がヴィルトォーゾ・タイプのピアニストでないことはすぐわかる。
彼女が参加したマスタークラスは、アルフレッド・ブレンデルパウル・バドゥラ=スコダイエルク・デムスゲザ・アンダといったピアニストたちのもの。皆、モーツァルトの達人だ。シロカイは1967年と1969年、ルツェルンで開催されているクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールのファイナリストにもなっている。
残された録音も室内楽などが少しあるだけで、いずれも地味な作品だ。

このモーツァルトは彼女のデビュー盤のようだが、ここまで綴ってきたイ長調の特徴を、大変良く捉えた演奏のように思う。
決して「幸せ」一辺倒ではない。ジャケットの彼女の写真のせいもあるかもしれないが、やはり気持ちが揺れ動いているような演奏だ。

あまたあるこの協奏曲の歴史的名盤たちに、勝るとも劣らない名演。



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