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1980年代終盤から1990年代初頭の女性アイドル・ポップスの完成度 #4~何故、この時代のアイドル・ポップスは、音楽的に正しく評価されなかったのか?

「『アイドル 冬の時代』と呼ばれる1980年代終盤から1990年代初頭に生み出された女性アイドル・ポップスの中に、実はプロダクツとしてのクオリティがとてつもなく高い作品が多かった、という事実を明らかにし、30年が経過した2020年代の今、再評価をすべきである」というのが、このシリーズの目的とするところである。
ここまで3回、それぞれ特定のアーティストにスポットを当ててその目的に向かってきたが、今回は総論的な視点で綴っていきたいと思う。

アイドル・グループ/ユニットとソロ・アイドルの明暗

1987年9月おニャン子クラブが解散し、「アイドル・グループ/ユニット」というスタイルによるアイドル・ポップスの市場はシュリンクしていく。
辛うじてフジテレビがおニャン子クラブから得たノウハウと、その反省を生かして運営していたタレント養成プロジェクト「乙女塾」の出身であったCoCoribbon、そして原宿ルイードを本拠にし、ノンストップのライブ・パフォーマンス=「ダンス・サミット」を定期的に開催し、そこからCDリリースやメディア展開を図る、という新しい発想で活動し始めた東京パフォーマンスドールの3組が、世間的認知を得ていた、と言っていい(余談だがAKB48の、秋葉原の自前劇場で公演を行いながら、リリース、メディア戦略に打って出る、というスキームは、このTPDの手法とよく似ている。秋元康はおニャン子クラブではなく、TPDにAKB48の着想を得ていたのでは?というのは穿った見方か・・・)。

一方女性ソロ・アイドル・サイドに目を転じてみれば、「アイドル=歌手」という発想は薄れ、女優、CMタレント、ラジオ・パーソナリティ、モデルも、といったマルチな展開が当たり前となり、実際に南野陽子酒井法子中山美穂浅香唯がその実践者となった。唯一歌うことに拘って成功を収めたのは工藤静香だけだったと思われる。
この5人に次ぐのが、工藤と同じくおニャン子クラブ出身で、おニャン子後期の2つのエンジンであり、キャラクターや戦略が180度異なった”W渡辺's”渡辺美奈代渡辺満里奈というところか。

女性アイドル・ポップスは音楽的レベルが低く、低俗なのか?

女性アイドル・ポップスのマーケットがシュリンクした最大の要因は、間違いなくおニャン子クラブの「功罪」の中にある。
「自分の身近な子がアイドルになったみたい」「手が届くアイドル」「毎日夕方5時になればテレビ越しに会えるアイドル」という、アイドルとファンの「距離感」をグッと縮めることにより、アイドル・マーケットをかつてない規模に拡大。グループ本体、うしろ指さされ組に代表される派生ユニット、ソロでデビューしたメンバーのシングルを計画的にリリースし、オリコン・シングル・チャートで毎週のように首位を独占するような珍事を起こし続けたおニャン子クラブ。
一方で「素人の学芸会レベル」「放課後のクラブ活動の延長線」と揶揄され、完成度より初々しさ、生放送番組であった『夕焼けニャンニャン』でのミスやアクシデントありきを前提としたアイドルの「素」を売りにする安易な方向性への非難。結果「低俗」「プロではない」「下手くそ」という言葉で括られることにも大きな説得力があった。
要は観る側、聴く側の価値観次第であったわけだが、おニャン子クラブが残した「アイドル・グループ/ユニット 負の遺産」が、新たに誕生してくるグループ/ユニットにとって、マイナス地点からのスタートを強いたのは事実であろう。「どうせ、二番煎じでしょ。所詮、かわいいだけなんでしょ。」と。

アイドル・ポップスの意味、価値

そんな「定説」がある意味では誤りであることは、これまでの3回の記事をお読みいただければお分かりいただけるかと思う。
アイドル・ポップスという世界の中で、アイドルという素材を使って、プロのクリエーターがそのテクニックやセンスを惜しみなくつぎ込んで制作したプロダクツは、決して駄作でも聴くに値しないものでもない。むしろそこに音楽の最先端を聴くことができる。
ただし、周りをいくら凄いプロで固めたとしても、結局歌うのはそのアイドルであって、そのアイドルに歌のセンス(音感)がなかったり、声が魅力的でなかったら、最終的な出口でその作品の価値が激減してしまう、というその一点で、アイドル・ポップスの良し悪しを評価するような風潮が、1980年代末から1990年代中頃まで厳然と存在していた。

ただ、私にはこれに対する異論反論オブジェクションがある。

それは、「上手い下手」という一元的な視点や、「自作詞曲でないから」という理由でアイドルの歌に疑念の目を向けるのではなく、10代後半から20代初頭の女性(少女)が、彼女(たち)のイメージや声、世界観に沿ってプロが作った楽曲を歌い、プロデュースされることによって、「今でしか歌えないピンポイントのリアルさ」を表現する、という点にアイドル・ポップス最大の魅力、楽しみ方がある、という理論だ。
その理論に、歌の上手い下手や自作か否か、という視点はあまり意味を持たない、と考える。

秋元康、後藤次利、そして中島みゆきといった超プロフェッショナルが、彼女に歌わせる価値があり、それを十二分に表現できる力(歌唱力や声質)があることを前提に、素晴らしい詞や曲を工藤静香に提供し、プロデュースした、という事例は超例外的なものだ。

救世主?? 出現!

こういったアイドル・ポップスが抱えるもどかしさ、「曲はいいのに歌が・・・」という大きな悩みの種を、かなりの確率で消し去ることができる文明の利器が、1997年アメリカで発明、製品化された。そして日本にも上陸した。

オートチューンである。

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オートチューンとは音楽ソフトウェアの一種で、音程の不安定な歌声・楽器の音声に対してデジタル信号処理を行うことにより、それを機械的に修正、補正するもの。
つまり音痴な人の歌であっても、その歌を一音一音正確な音程(ピッチ)に修正すれば、上手い人が歌っているように聞こえる、という音楽表現の考え方の根底を覆しかねないツールだ。

もちろん、歌の上手い下手はピッチの問題だけで決まるわけではない。
リズム(グルーヴ)感、声質、発音、そして抽象的なものまで含めれば、その歌に込められた歌い手の気持ちの表出、なども重要な要素だ。
しかし、ピッチが正しく取れている、というのはその歌の魅力度アップのための最大の条件と言えるだろう。

このオートチューンはピッチ補正という元々の機能以外にも、「ケロケロボイス」などと呼ばれる、かなり偏った平坦な音程や独特の音程変化といったエフェクトも得ることもできるため、サウンド・エフェクター的な利用もされた。
最も分かり易く、有名なのはダフトパンク『One More Time』
ここ日本ではプロデューサーの中田ヤスタカが、Perfume『ポリリズム』で全編オートチューンを使用し、ヴォーカル・レコーディングした例がよく知られている。

もちろん、オートチューンは前述したように音楽表現の考え方の根底を覆しかねないツール、という点で、その使用に異を唱えるアーティストや制作者も多い。
しかし、ことアイドルに関して言えば、アイドル・ポップスの意義を伝えるために、オートチューンやそれに続いて開発された各種ピッチ補正ソフトは決定的な役割を担ったと言っていい。

偶然か必然かは別にして、アイドル・グループ/ユニットの暗黒時代に光がもたらされることになるモーニング娘。のデビューは、オートチューンが製品化された1997年のことである。

パラドシカルに言えば、1997年にオートチューンが出現する前のアイドル・ポップスにおいて、ピッチ補正はなされていないことになる。

ここで少し思うことがある。
もし、新田恵利『冬のオペラグラス』や、立見里歌率いるニャンギラス『私は里歌ちゃん』が、オートチューンでピッチ補正されていたら、果たしてそれは作品としての魅力を増し得たのか?いや、むしろ魅力が半減したのか・・・?

名称未設定のデザイン

口パク

ピッチ補正とは少し異なった視点だが、現在ではそれを「公然の秘密」「知らないことにする」という風潮がある「口パク」についても、それを是認するか否かは別にして、アイドル・ポップスを語る上で避けては通れない視点である。
オートチューンでも名前が挙がったPerfumeのライブ・コンサートがほぼ全編口パクで通されているのは、誰もが知っている事実である。
彼女たちのパフォーマンスを観たい人々にとって、「生で歌っているか否か」は些細な問題、いや、問題ですらないのかもしれない。そこにPerfumeの価値を見出そうとしているのではなく、一つのパッケージとしてのパフォーマンスを鑑賞することを目的、喜びとしているのだから。
また、AKBグループ坂道グループも、テレビやコンサートにおいて口パクでパフォーマンスしている場合があるのは、バレバレだ。
AKBグループの場合、同じ歌をパフォーマンスする場合でも、その日のメンバー構成がまちまちなことは日常茶飯事だが、どう聴いてもいつも同じ歌声に聞こえる。
「それがどうした!?」と言わんばかりに。

アイドル・ポップス享受のされ様の変化

「歌をパフォーマンスする」ということに向けられる視点、それを聴いたり観たりすることにより享受する喜びの種類が、私が愛するアイドル・ポップスが生み出された30年前とは大きく異なっているのだろう。

それを敢えて否定するつもりはないが、拙い歌であっても、そこに張り巡らされた情報量と音楽性の高さ、大人たちの知恵の集結、そして、「今この時にしか歌えない瞬間性、刹那性」をアイドル・ポップスに求める者としては、同じ方向性を向くわけにはいかない、というのが偽らざる思いである。

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