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アンティゴネーの愛を聞く—ギリシア悲劇のなかの少女のために

アンティゴネにあっては、すべてが愛である。あるいはすべてがいつか愛になる。
————アンドレ・ボナール『ギリシャ文明史Ⅱ』より


 最近、友人の愛娘ちゃん (二歳になったばかり)に「否定する」ブームが来ているらしい。「おかあさん、○○っていわない」「○○しない」などなど、ちいさな彼女は目の前の相手・世界と彼女を区切って、相手から要求された言動をとらないばかりか言葉に出して「しない」と言ったり、親の行動を否定してみたりしている。子育てをしている友人にとってはなかなか手ごわいことだろう。しかし私は(気楽なもので)、ちいさな彼女のめいっぱいの否定、意思の芽生えのようなものに感動してしまう。彼女はこんなにちいさいのに、さっそく、親に、世界に挑み始めているのだ!

 世界に挑む少女——私にとって、その原型はアンティゴネーだ。


ギリシア悲劇

 紀元前441年に上演されたと推定されるギリシア悲劇『アンティゴネー』は、三大悲劇詩人のひとりソポクレースの代表作の一つであり、現存する彼の悲劇の中でも初期の作品である。

 アンティゴネーは、テーバイの王オイディプースの娘として生まれた。
 オイディプースは、テーバイ王の子供として生まれるが、「父親を殺し母親を娶る」というアポローン神の神託のため赤子の時に捨てられ、めぐりめぐって他国コリントスの王子として育つ。しかし、神託で「父親を殺し母親を娶る」と(彼自身もまた)告げられ、実の両親だと思っているコリントス王夫妻の元へ帰ることができなくなり、放浪するうち、実の父親ともテーバイ王とも知らずラーイオスをいさかいの中で殺してしまう。その後スピンクスの謎を解いてテーバイを救い、王を失い寡婦となったテーバイ王妃イオカステーと結婚して王位につくが、つまり、知らずに実の母親と結婚してしまう。こうして、避けようとする人々の思いに反して次々におそろしい神託が成就するのがオイディプース王の神話だが、この神話に材をとったのが、ギリシア悲劇の最高傑作とも名高いソポクレースの『オイディプース王』である。テーバイにおそろしい疫病が蔓延し、その原因を突き止めようとしたところ、自分が先王殺しの罪びとであり、また、実の母親と結婚していたことを知ってしまうオイディプースの運命の二時間が、卓越した構成と力強いセリフの数々で描き出される。

 ギリシア悲劇というのは、紀元前五世紀のアテーナイ(現在のアテネ)で著しく発達し最盛期を迎えた演劇の一ジャンルである。この演劇ジャンルは、基本的にギリシア神話を題材として作劇され、上演された。当時のギリシアの人々にとってギリシア神話は彼らの信仰している宗教にかかわる物語で、誰にとっても馴染み深いものであった。そのためギリシア悲劇の上演は、新作であっても、登場人物が舞台に現れてその名が分かったり、場所や状況が分かったりしたとたん、観客は、その物語がどんな結末を迎えるのか分かってしまう。共同体が共有している物語や、観客がその「運命」をよく知っている人間をとりあげ、それらを見つめる時間をつくり、人間という存在や、人間が営んでいる社会について考える機会を与える機能がギリシア悲劇にはある。
 そうしたギリシア悲劇において、主人公は「人間の限界」に挑む。人間の力を広げ、それを越えようとするのだ。冒頭で引用したアンドレ・ボナールは、悲劇の主人公を「音速の壁を越えようとする勇敢な飛行士」にたとえる。
 限界に挑む英雄の姿は美しい。
 しかし、悲劇の主人公は、その限界への挑戦において、たいてい失敗する。
 彼/彼女たちの失敗する姿は、私たちに、人間という存在がどこまで気高く、美しく存在することができるのかを示すと同時に、目には見えない運命の壁を明らかにする。それを見ることによって、私たちは、限界を——つまり自己を乗り越えようという望みを持ちうる。
 英雄の死は、見る者の心のうちで希望へと変質するのだ。

悲劇『アンティゴネー』

 さて、悲劇『アンティゴネー』は、父王オイディプースが死に、その跡目を争ってオイディプースの二人の王子が互いに討ち死にしたあとの世界を描く作品である。そのため、『オイディプース』の続編のようにとらえられることが多いが、実は、『アンティゴネー』のほうが先に上演されている。『オイディプース王』ではソポクレースのテーマ設定も微妙に変わっているため、この二作は続編(同じユニバースの作品)とは言えない。
 とはいえ、物語としてはあまり矛盾がないため、『アンティゴネー』は『オイディプース王』の続編として見ることもできる。

 悲劇『アンティゴネー』のはじまりはこうだ。
 夜明け、人目を忍んで館の前に妹を呼び出したアンティゴネーは、死んだ兄の埋葬を手伝ってほしい、と妹のイスメーネーに頼む。
 アンティゴネーたちの兄である世継ぎの王子二人が互いに討ち死にして、新しく王となった叔父クレオーンは、亡命して王座を明け渡すよう要求して戦った兄ポリュネイケースについて、野ざらしのまま野犬野鳥の喰らうに任せよ、何人たりともこれを埋葬してはならない、という命令を国に出した。アンティゴネーは、この、新しくつくられた「きまり」に歯向かうつもりなのだ。兄の一方は弔って、もう一方は弔わないなんておかしい。同じ家族なのに! 家族の私がちゃんと埋葬をしなくては。だから、血を分けた私の妹、あなたも手伝って————というわけである。
 リアリストである妹イスメーネーは、女子の身柄で国に背くなんて大それたことはできない、といって、アンティゴネーの頼みを退ける。良くないことだとはわかってる。でも、私にはできない。私は弱い。女の子だからそんなことできない。たとえ嫌でも力あるものには逆らえない。という理屈である。
 アンティゴネーはこの拒絶を受けて、ここできっぱり、妹を自分の運命から切り離す。わかった、もうあなたには頼まない。私ひとりでやる。そう言うアンティゴネーに、イスメーネーは「あなたは不可能を愛している」(90行)「もしやるなら、誰にもばれないようにこっそりやって」と言う。
(国家や権力に対して、その掟がよいことだとは思えないけれどそれでも大きな声で逆らえない、歯向かうならこっそりやってほしい、という思いを、私はあまり卑怯だと思えない。イスメーネーの感じる恐れはとてもリアルだ。集団や社会の恐ろしさを彼女は知っている。)

 イスメーネーは、姉のアンティゴネーがとても好きだ。姉のことを案じ、心配し、この後、アンティゴネーが大変な目に遭おうとするときも、必死で彼女を弁護しようとする。しかし、そんなイスメーネーに、アンティゴネーはとても冷淡に見える。

 妹イスメーネーと運命を分かつことを決めたアンティゴネーは、一人で埋葬を断行し、一度目の簡易的な埋葬は誰にも目撃されずにやりおおせるも、まるで挑発するように二度目の埋葬に赴き、そこで捕まってしまう。叔父である新王クレオーンの前に引っ立てられ、国の最高権力者を相手に激しい舌戦を繰り広げるアンティゴネーはこのように言う。

「わたしは憎しみ合うのではなく、愛し合うように生まれついています」
οὔτοι συνέχθειν, ἀλλὰ συμφιλεῖν ἔφυν. (523行)

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 愛し合うために生まれた——「私の本性は愛し合うことだ」とアンティゴネーは言っている。
 彼女の「愛」とはいったいどういうものだろう? 
 妹のイスメーネーには「あなたは不可能を愛している」と言われている。また、新王クレオーンの布告を耳にしたコロス(合唱隊)の長は220行で「好き好んで死罪になるような愚か者はおりません」と言う。アンティゴネーは好き好んでこの「死」に突き進んでいく。そのため、彼女の愛というのは、私たちが一般に考えるような「愛」とは少し違う、死を内包する愛なのかもしれない。しかしそれは自殺願望だとか、死んだ兄への愛だとか、そういうものとも違うように見える。

言葉にすること、言葉にならないこと

女がノーと言いにくいのは選ばれると嬉しいからだ。相手が権威者なら特に嬉しい。だから自分よりも父親や上司、同僚や恋人の反応が気になるが、自分の中の純粋な心はごまかせない。自分が楽しめないのは苦痛だ。
————モーリーン・マードック『ヒロインの旅』より

 アンティゴネーは登場した時からずっと反抗し続けている。誰かに気に入られようとか、許してもらおうとか、そういうことは一切彼女の頭にはない。叔父に対しても一切悪びれることなく、自分が兄の埋葬を行ったのだと堂々と言う。自分の身を案じる妹にもきつく当たる。
 死んだ兄の埋葬がばれて死罪を言い渡されたアンティゴネーに「おねがい、私もいっしょに死なせて」という妹イスメーネーを、アンティゴネーは突き放す。

「そんなことは正義が許さない。あなたは嫌だって言ったし、私だってあなたを仲間にはしなかった」(538-9行)
「一緒に死ぬなんてだめ、やりもしなかったことを自分のものにするのはやめなさい。私が死ぬだけで十分」(546-7行)
「あなたは生きる道を、私は死ぬ道を選んだの」(555行)


 また、このあとアンティゴネーの婚約者であり新王クレオーンの息子ハイモーンが現れ、必死にアンティゴネーに下された死刑を取り下げさせようと働きかけるのだが、アンティゴネーからハイモーンに対して言及するセリフは一行もない。

 572行の「ああ、ハイモーン、お父さまはなんてあなたを侮辱するのかしら」をアンティゴネーのセリフと取る向きもあるが、私はこれをイスメーネーのセリフとして取る立場である。現存する中で最も権威あるL写本(11世紀)をはじめ、全写本と古註はこのセリフを妹イスメーネーのものとしている。アンティゴネーのものとするのは1502年のアルドゥス版以来の伝統だ。これをアンティゴネーのセリフとすると、イスメーネーとクレオーンの一行対話(スティコミューティアー)の途中で急にアンティゴネーが割り込んでくる形になり、形式が崩れてしまう。このセリフをアンティゴネーに帰す研究者も多いが、「愛の人」アンティゴネーの口からハイモーンへの言及がないなんておかしい、それではハイモーンが報われない……というような心情が大きく働いているのではないだろうか。だが、ここでハイモーンに言及することは、むしろアンティゴネーの「愛」のスケールを小さくしてしまうように感じられる。

 婚約者ハイモーンは、父親である王クレオーンに婚約者アンティゴネーの命乞いをするのに、彼の愛情を持ち出さない。むしろ、正義や道理を語り、父親に、王たる者の真の利益を悟らせようと、おそろしいほど冷静に、理性的に語り続ける。彼は、自分の恋を一言も口にしない。しかし、この場面はそのためにより一層、彼がアンティゴネーを燃えるように愛していることを伝えている。(このシーンに続いて、「愛(エロース)讃歌」と呼ばれて名高いコロスの歌がある。何者も打ち勝つことのできないエロースの力が高らかに歌われることによって、ハイモーンの燃える心がより一層印象付けられる。)
 アンティゴネーが彼の名を呼ばないのは、婚約者のことを忘れたのでも、愛していないからでもない、と私は考える。むしろ、彼女は全身全霊で、ハイモーンの名を呼ぶことを自らから遠ざけている。死刑を宣告され、岩屋(洞窟)に連れていかれるアンティゴネーは自分のために哀悼の歌を歌うが、その中で彼女は繰り返し「婚礼」に触れる。歌の後も、彼女は、彼女には永遠に訪れない「婚礼」に——ハイモーンと共にむかえるはずだった「夫婦の床」、共に聞くはずだった「婚礼の歌」、そして彼との間に生まれるはずだった子供たちに——繰り返し言及する。そこには常にハイモーンの影がある。
 彼女は、貫き通さねばならない「愛」のために、ハイモーンと歩く人生を諦めた——いや、諦めようと懸命に努力している。彼女の「愛」が、彼女という人間の存在を賭けたものであることが、このいじらしさから浮かび上がる。

「ああ、ハイモーン、お父さまはなんてあなたを侮辱するのかしら」

 このセリフをアンティゴネーに帰すことは、アンティゴネーのこの気高さといじらしさを減じるだろう。それに、そうした張り詰めた姉の前で無邪気にハイモーンの名を呼ぶことができる——いやむしろ、婚約者の名前を呼ぶことができない姉のために彼の名を呼ぶ妹イスメーネーの素直なやさしさを浮かび上がらせる悲劇詩人の手腕を曇らせてしまう。
 
 『アンティゴネー』という作品には、こうした、悲劇の醍醐味ともいうべき悲痛なまでに甘美な物語(と心)の働きがある。この悲劇の中には、気高さといじらしさが、互いを強烈に高め合う形で同居している。直接言及しないことによって、声にならない思いが言葉という肌の下で燃え上がり、悲劇の熱い血潮となる。ハイモーンがアンティゴネーへの愛を口にしなければしないほどに、彼の愛の熱烈さを私たちは知り、アンティゴネーがイスメーネーを拒絶すればするほど、自分と違う運命を歩む妹、自分とは別の人間と認めている妹への厳しいやさしさが私たちの前にくっきりと浮かび上がる。

 アンティゴネーは、目の前の人間を喜ばせるような言葉を決して言わない。権威者はもちろん、いまやたった一人の家族である妹や、婚約者にすら、彼らの気に入るようなことを言わない。彼女は周囲に理解されない彼女の意思、彼女の「愛」に邁進する。そうすればするほど、私たちは彼女の「愛」の炎のような激しさと、彼女のやさしさ、いじらしさを知る。そして、自分の心を偽ったりごまかしたりせず、本心に忠実に生きる喜びに浸ることができる。

死に向かう愛

 ハイモーンがアンティゴネーの命乞いに失敗し、いよいよアンティゴネーは岩屋に閉じ込められることになる。
 反抗して、反発して、突き放して、否定して、自分を偽ってまで生きている誰かに気に入られようなどとは思わずに、アンティゴネーは自分が正しいと思う道を突き進んでいく。その道の果てにあるのは冷たい死だ。
 彼女は自分のための哀悼の歌(コンモス)を自ら歌うことになる。
 最終的にアンティゴネーは、岩屋に閉じ込められ、死ぬ。人前で公然と死刑に処されることもなく、暗い場所で存在をないものとされることを絶望して、あるいは、人間からも神々からも見放されたと感じて、自ら命を絶ってしまうのだ。

見よ、祖国の者たちよ
この最後の道を
歩みゆくわたしを——もう決して
再び見ることのかなわない陽の光を
仰ぎ見るわたしを。あらゆるものを眠りにつかせる
ハーデースが、わたしを生きながらに連れていく、
アケローン川の岸辺へと。
婚礼の歌に
見送られもせず、だれも言祝(ことほぎ)の
ことばを私に歌ってくれる人もなく、
わたしはアケローンに嫁ぐのだ。(806-816行)

※アケローン……冥界を流れる河。死者はこれを渡って冥界へ至る。時として冥界それ自体を指すこともある。

 アンティゴネーは、自分の正しいと思うことを貫き、自分自身に正直だった結果、彼女の人生——彼女の「愛」が、彼女の生きる社会の中において「死」へ向かう方向に定められてしまった。周囲のすべての人間の「あたりまえ」のこと、人間たちの定めたことごとに「否!」と叫ぶことで、もしかしたら彼女は、自分自身の生や、人間として生きることを愛していた——いや、愛そうとしていたのかもしれない。しかし、彼女の生きる社会——古代ギリシアにおいて、それは独りぼっちになってしまう道、死へ向かう道だ。
 社会の成員として——ひとりの少女として、彼女は自分の意思を貫くことを許されていない。彼女は国の、王の、親の、だれかの所有物でなくてはならない。権力に従い、自分の主人の定めた法に従わなくてはならない。
 しかし、彼女は、人間の法を超越した法の中で生きる。さもなくば死ぬ。彼女は縛られたくない。あらゆる支配、彼女を押さえつける抑圧に「否!」を叫ぶ。

だって、わたしにその布告を出したのはゼウスではないし、
地下の神々と共におわす正義の女神が
このような法を人間たちに定めたわけでもありません。
それに、あなたの布告にそんな力があるとわたしには思えなかった。
———文字に記されずとも決して揺るがない、神々が定めた法に、
死すべき人間の身が定めたものの方が勝るだなんて。
この法は、昨日今日できたようなものではない、永遠に生き続けるもの——
だからいつ現れたのか、誰にも分からない。(450-457)

 彼女の宇宙を統べる法は、彼女が生きている社会や時代を超越して永遠に生き続ける法である——もしかしたら、彼女が愛しているものは、「自由」ではないだろうか?
 死んだ兄たちを区別することなく葬る自由——どちらも同じく愛しい兄だと思う自由——兄たちを英雄と逆賊に分けるような社会に反抗する自由——ひとりの少女が、こんな掟、こんな法、こんな、時の権威者が勝手に決めたばかげた法はおかしい! と声を上げる自由。
 彼女が生まれた社会において、少女は自由ではありえない。
 彼女は死ななくてはならない。
 アンティゴネーの愛は、いやおうなしに、死へと向かうように定められている。

 「死へ向かう愛」を一人で抱え込むのは苦しかっただろう。世界に否定を突き付けながら、自己実現をして、自分を認めてもらおうという大きな矛盾にぶつかって(アンティゴネーはギリシア悲劇の英雄らしく、名誉を求める。名誉というのは生きている人間の領域、そして社会の中にあるものだ)、彼女は自分自身の限界に行きついて、破滅してしまった。
 アンティゴネーは自分自身を貫きながらも、それを認めてもらいたかったのだ。
 その渇望は、誰か一人に理解されるだけでは満たされるものではなかった。やさしい妹イスメーネー、彼女を愛する婚約者ハイモーンがたとえ理解してくれたとしても、アンティゴネーはそれでは幸福にはならない。それは彼女が求め、実践する「愛」ではない。彼女は真に自由であるために、彼女の生まれた社会、彼女の存在する世界の承認を得なくてはならない。そうした大きな渇望、限界への大きな挑戦に命を燃やしているからこそ、彼女は悲劇の主人公であり、悲劇の英雄の資格を得る。
 自分自身を愛し、自由を愛しながら、そんな自分をも愛してもらいたかった——世界に、社会にそれを認めてもらいたかった。それが、彼女なりの「愛し合う」συμφιλεῖνだったのではないか。

 予言者テイレシアースの説得を受けて、王クレオーンはアンティゴネーを解放しようと心変わりする。しかし、野ざらしにしていた死体の埋葬を終えて岩屋に向かうと、すさまじい泣き叫びの声が聞こえる。ああ、一足遅かった————首を吊って死んでいるアンティゴネーの亡骸を抱きしめて、ハイモーンが泣き叫んでいたのだ。ハイモーンは父親の姿を認めるとすさまじい目で睨みつけ、剣を抜いて切りつけようとした。しかし太刀を浴びせることはできなかった。彼は自らの脇腹に剣を突き立てる。そして、結ばれることが叶わなかった乙女を抱きしめ、彼女の白い頬に赤い血潮を滴らせながら、息絶える。息子の悲報を聞いて、クレオーンの妃も自害する。最終場面で、クレオーンは、息子と妃の遺体を前にして嘆く。そこにアンティゴネーの遺体はない。クレオーンもコロス(合唱隊)からなるテーバイの長老たちもアンティゴネーの死には言及しないまま退場し、この悲劇は終わりを迎える。

アンティゴネーの輪郭

 劇の最後、アンティゴネーはどこまでも透明だ。姿も見えないし、人々の言葉にもあがらない。ほんとうに、存在がないものとされてしまったようにも見える。あまりにも救いがないように思われて、初めて『アンティゴネー』を読んだ時、私は悲しくてやりきれなくなった。どうしたら、アンティゴネーを救うことができるのだろう?
 劇中では透明になってしまっても、この劇を見ている——あるいは読んでいる——私たちの中に、アンティゴネーは最後まで深く食い込んでいる。誰からも見放されてしまった————アンティゴネーはそう思いながら死んだかもしれないけれど、テーバイの市民たちはアンティゴネーの行いを評価していたし(これは、命を懸けて彼女を救おうとしたハイモーンが私たちに教えてくれることだ)、それに、使者の報告によって語られる壮絶なハイモーンの最期は、彼がどれほどアンティゴネーのことを強く想っていたかを私たちにふたたび伝える。アンティゴネーが、自ら歌った自分への弔いの歌は、観客の耳に最後まで、もしかしたら劇の後もずっと残っただろう。

 自分で、自分のための歌を歌った女の子。命を懸けて魂の自由を求めた少女。
 「否!」ということで、彼女は、自分自身を見つけようとしていたように見える。それがたとえ死に向かうもので、人間である彼女には到底抱えきれない試みであったとしても、私たちの目には、彼女と言う存在の輪郭がはっきりと焼き付く。

 私は何度も、アンティゴネーに呼び掛ける。
 神様からも人間からも見放されてるなんて、そんなことないよ、アンティゴネー。
 みんな、あなたのことが大好きなんだよ。
 イスメーネーも、ハイモーンも、この劇を見ていたアテーナイの人びと——農夫と船乗りたちからなる市民たち、戦争から帰ってきた傷ついた男たち、そして後代の人びとも、あなたのことが大好きなんだよ。
 私もあなたが大好きなんだよ。
 たぶん、出会う前から、ずっとあなたのことが大好きだった。

 なにか、自分よりも大きな流れに対して、それは違う、と声を上げようとして、しかし自分の心の中の恐れや怯えに気が付くとき、私は、自分の心の中に焼き付いたアンティゴネーの輪郭を思い起こすようになった。そういう場面は年々増えていく。
 私が恐れに負けずに「否」と声をあげられるとき、私の中でアンティゴネーはよみがえる。
  それは目の前の人や、遠くにいる誰かを傷つけることかもしれない。
 私は、アンティゴネーとハイモーンの手を引いて岩屋から出ていく。
  そうすることで、周りの人に嫌われてしまうかもしれない。
 陽の光の下で、アンティゴネーが微笑む。私も微笑む。
  その時、私は自分を愛することができるのだ。



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参考文献

一次資料
Lloyd-Jones, H. and Wilson,N.G (eds.), Sophocles Fabrae, Clarendon Press, Oxford, 1990.
【翻訳】
呉茂一訳『アンティゴネ』,『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』筑摩書房、1986年。
中務哲郎訳『アンティゴネー』岩波書店、2014年。
柳沼重剛訳『アンティゴネー』、『ギリシア悲劇全集』3、岩波書店、1990年。
※本文中に引用した『アンティゴネー』の日本語訳は、上記からの引用ではなく筆者による試訳である。

二次資料
Griffith, M. Sophocles: Antigone. Cambridge University Press, 1999.
川島重成『ギリシア悲劇 神々と人間、愛と死』講談社学芸文庫、1999年。
アンドレ・ボナール、岡道夫・田中千春訳『ギリシア文明史Ⅱ』人文書院、1975年。
モーリーン・マードック、シカ・マッケンジー訳『ヒロインの旅』、フィルムアート社、2017年。

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