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ペルセポネーの声を聞く—『デーメーテール讃歌』によせて

Persephone's initial
sojourn in hell continues to be
pawed over by scholars who dispute
the sensations of the virgin:

did she cooperate in her rape,
or was she drugged, violated against her will,
as happens so often now to modern girls.

As is well known, the return of the beloved
does not correct
the loss of the beloved: Persephone

ペルセポネーのはじめての
冥府への逗留は
処女の感覚に反抗する学者たちによって
撫でまわされ続けている

彼女は凌辱されるのに協力したのか
それとも薬を盛られ、意志に反して暴行されたのか
現代の女の子たちによくあるように

良く知られているように、愛しい人の帰還は
愛しい人の喪失を
正すことにはならない:ペルセポネー

"Persephone the Wanderer" from Averno by Louise Glück より抜粋、試訳

 何気ない日常の動作の中で、または本を読んでいるとき、映画を見ているときに、忘れていた昔のつらい記憶がよみがえることがある。そんな出来事があったことすら忘れていた、そして当時はそれを「つらい」と認識することすらできていなかった出来事が、鮮やかに、すこし俯瞰するように思い出される。体が氷のように冷たくなったり、体の中に鉄の塊があるように苦しくなったり——しばらくパニックに陥り、そしてようやく、「私はつらかったんだ、傷ついていたんだ」と気が付く。
 私にはそういうことが度々ある。まさになにかの渦中にあるとき、その出来事や体験の「つらさ」に気が付けない。気が付くまでに数年のブランクがあり、その間、その出来事自体が「なかったこと」になってしまう。しかし、ある時突然思い出す————ということは、それは全然「なかったこと」にはなっていなかったということだ。自分の中でどう処理していいのかわからず、目をそらして、記憶ごと闇の中にしまい込んでしまったまま、どこかで痛み、膿んだままにしていた。それが、ある時、なにか、目の前の「物語」に触発されるように表面に出てくる。おそらく、誰かの物語のおかげで、私は自分の身に起こったことを「物語化」して、自分自身に語ることができるようになる。「ああ、あれはこういう出来事だったんだ。私はあのときつらい思いをした」————そう認めることができると、私の体はほんのすこし軽くなる。その気付きや「物語」を聞いてくれる誰かがいるなら、私の体はもうすこし軽くなる。もちろん、打ち明けるのにはとても勇気がいる。簡単にできることではない。だけど、安心できる場所で、信頼できる誰かに語ることができたなら————そしてそれを受け止めてもらえたなら、私はその「物語」の傷や重りを手放すことができる。そして、もしかしたら、それが別の誰かの「物語」につながるかもしれない。

 かれこれ2600年の間、多くの母親と娘たち、そしてそのほかの弱い立場の人々を救ってきた「物語」がある。神話と信仰を題材に作られた歌、特定の「救い」へと人間を誘った495行の小さな叙事詩、ホメーロス風讃歌第二番『デーメーテール讃歌』の話をこれからしたい。

 デーメーテールと、その娘神、単に「コレー(乙女)」ともペルセポネーとも呼ばれる女神は、ともに古代ギリシアで篤く信仰されていた偉大な神格である。
 ホメーロス風讃歌の第二番『デーメーテール讃歌』は、この二柱の女神たちの中心的神話と、エレウシースの秘儀の起源とを同時にうたう。ペルセポネーが冥界の王ハーデースに攫われ、娘を奪われた母デーメーテールが地上に大飢饉を起し、結果、ペルセポネーは母の元に戻るが、一年のうちの一部を冥界で過ごすようになる——といった一連の神話を記す文学としては、ヘーシオドス『神統記』に次いで最も古いもので、紀元前7世紀から6世紀に成立したといわれている。もともと文字で書かれた詩ではなく、口承叙事詩の伝統の中で生まれ、歌い継がれていたものだ。
 

デーメーテール讃歌あらすじ/冥界下り


「デーメーテール讃歌」の内容はこうだ。
 野原で友人たちと共に花を摘んでいたデーメーテールの娘コレー(=ペルセポネー)は、突然、地下にある冥府の王ハーデースに連れ去られてしまう。娘の悲痛な叫び声を聞いたデーメーテールは九日間飲食を断って娘を探しさまよう。十日目に、自分もペルセポネーの叫び声を聞いたという女神ヘカテーがデーメーテールのもとにやってくるが、ペルセポネーはみつからない。そしてとうとう、太陽神ヘーリオスから聞いて真実を知る。娘がハーデースに連れ去られたこと、神々の王ゼウスがデーメーテールに断りなくハーデースに娘を与えたことを知り、デーメーテールはひどく悲しみ、そしてゼウスに憤り、神々の世界オリュンポスを退いて人間の世界に旅する。デーメーテールは老婆に姿をやつし、彼女を親切に迎え入れたエレウシースの君主の館で乳母となる。館で生まれた待望の末息子デーモポーンを不死にしようと炎の儀式を行っていたところ、デーモポーンの母親、館の女主人であるメタネイラにその様子を見られ、デーメーテールは真の姿を現し、人間たちに神殿の建立を命じて館を去る。娘を失い、人間たちの館をも去ったデーメーテールは、神々の世界に帰らず神殿に引きこもり、娘恋しさに身を細らせ、同時におそろしい大飢饉を巻き起こす。この飢饉によって人類は絶滅の縁にまで追いやられる。人間たちから供物が捧げられず困り果てた神々の王ゼウスは、何度もデーメーテールに使いを出すが、女神は娘をこの目で見るまでは決して神々の領域にも戻らず、作物も実らせないと言い張った。とうとうゼウスは折れて、冥界に伝令の神ヘルメースを遣わし、ハーデースにペルセポネーを地上に帰すように言い渡す。ハーデースはゼウスの命に従うが、妃ペルセポネーが永遠に地上にとどまるようなことにならないよう、こっそりと柘榴を一粒彼女に食べさせる。ペルセポネーは喜んで地上へと戻り、母親と再会する。そこで自分の口から、これまで彼女の身に降りかかったことを語り、母親と一日中抱き合う。やがて、娘を失ったデーメーテールに唯一親身に寄り添った神であったヘカテーが二人のもとへやってきて、ペルセポネーを抱擁する。ペルセポネーは冥界の柘榴を口にしてしまったため、一年の三分の一は冥界で過ごすことになるが、残りの三分の二は母やほかの不死なる神々と共に過ごして良いことになった。ゼウスに頼まれてレイアー女神がデーメーテールのもとへやってきて、地上に作物を実らせるように説得すると、デーメーテールは自分の母親であるレイアーの言葉を聞き入れ、たちまち大地を肥沃にし、作物を実らせ、花を咲かせた。そして、エレウシースの君主たちのもとへ行き、参入者以外には聞くことも語られることも許されない神聖な秘儀(=エレウシースの秘儀)を授け、娘と共にオリュンポスへと帰る。秘儀に与る者がデーメーテールとペルセポネーの二女神に愛されること、富が授けられることが語られ、女神たちへの呼びかけと祈りで、讃歌は締めくくられる。

 いわゆる「冥界下り」の神話のひとつと言えるが、一筋縄ではいかない冥界下りである。シュメールの女神イナンナや、日本神話のイザナギ、同じギリシア神話のオルペウスやヘーラクレースやオデュッセウス、またはディオニューソス神は、自らの意志で冥界に赴くが、ペルセポネーは自ら進んで冥界に降りていくわけではない。彼女は望んでいないのに強制的に連れていかれる。この讃歌で讃えられているメインの大女神であり、愛するものが冥界に連れ去られてしまったデーメーテールは冥界には降らない。そうではなく、引きこもって世界をほとんど破滅させるところまで追いやる。(デーメーテール自身が冥界へ娘を迎えに行く異伝も存在するのだが、その話はまた別の機会にしよう。)
デーメーテールとペルセポネーは二柱セットで信仰されることの多い女神たちであるが、この二柱の女神それぞれの経験が、重層的に絡み合って構成されているのがこの「デーメーテール讃歌」である。

喪失と変化

 「デーメーテール讃歌」原文のギリシア語を読むと、ぎょっとするくらい、ペルセポネーの誘拐・略奪の暴力性や、それによってひきおこされる苦しみが明確に描かれている。まだまだ母親にとっては小さな子供、かわいい盛りの小さな娘が、いきなり、自分に何の相談もなく、花嫁として大人の男のところへやられてしまうのである。また、(女神とはいえ)冥界に下るということが「象徴的な死」を意味することは、娘を失ったデーメーテールが黒衣を纏い、古代ギリシアの人間たちの喪に服す時の所作を取ることから隠しようもなく浮かび上がる。
 古代ギリシアの結婚の慣例——結婚は男親と婿の間で取り決められ、母親や結婚する当人である娘に相談する必要はなく、そして娘は14・15歳で嫁ぐのが一般的だった——からすると、ペルセポネーの父であるゼウスと婿となった冥界の王ハーデースは(当時のギリシアにおいては)まったく普通のことをしたまでなのだが、そのことは母と娘を途方もなく深く傷つけるということも、鮮やかに描かれている。
 娘を失ったデーメーテールはオリュンポスを退いて人間の世界を旅する。冥界に連れ去られたペルセポネーは、苦しみ、侵害され、勇ましい心(359行 δαίφρων、これはホメーロスの叙事詩において戦士たちに用いられる言葉である)、聡い心(370行 περίφρων)を持つようになり、そして柘榴を一粒食べさせられる。
 母神と娘神はやがて再会するが、それぞれ旅をし、新たな栄誉を獲得して(この栄誉とは、その神格がそれによって讃えられる権能、力のようなものと捉えてよいだろう。ペルセポネーは冥界で死者たちの偉大な女王となり、デーメーテールに関してははっきりと明言されていないが、おそらく秘儀そのものを司るという権能だろう)、変化している。もうけっして以前のふたりではない。

 後の時代、主に古代ローマの文学や史料で、冥府に連れてこられたペルセポネーがやがて夫ハーデースを愛するようになったり、地上に戻ることを拒んだりするといった物語が語られるようになる。そこでは「夫への愛」という救いがペルセポネーにもたらされているようだが、「デーメーテール讃歌」においてはそのような甘やかさは皆無である。彼女はひたすらハーデースとの結婚を嫌がっている。ヘルメースが迎えにやってきて、地上に戻ることができる——母親と再会できると知ったペルセポネーは喜びで飛び上がるのだ。(このとき、ペルセポネーはハーデースと共に臥所の上にいる。彼女はもう「妻」にされてしまった。このあと、ハーデースから食物を与えられてそれを食べてしまった彼女は、知ってか知らずか、「結婚」を完了させてしまうことになる。古代ギリシアで花嫁が夫の家に嫁いで食物をとる時、彼女は、夫の権限のもとで生きるという新しい生活を受け入れることになる。)

語られる女神/語り始める女神

 ペルセポネーの叫び声を聞きつけてデーメーテールは娘がいないことを知る。ヘカテーもペルセポネーの叫びを聞く。ヘーリオスはペルセポネーが連れ去られる様子を見る。讃歌の詩人(作者)はペルセポネーの花のような美しさを讃える。彼女を妃に望んだハーデースは、彼女の拒絶を聞き入れず、自分がいかに望ましい夫か、そしてその妻となる彼女がどれほどの栄誉を受けるかを説く。ここまでずっと、ペルセポネーが自分で「話す」場面はない。この物語の中心的な存在であるにもかかわらず、私たちは、彼女の「叫び」しか、まだ聞いていない。
 しかし、冥界から地上へと戻り、母親と再会したペルセポネー(そう、かつて地上で母親の「娘」として「コレー」と呼ばれていた彼女ではなくではなくペルセポネーと呼ばれる彼女)は、これまでのことを自分のことばで語り始める。

 繰り返し・反復は口承叙事詩の特徴のひとつで、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』でもたびたび見られるが、一字一句正確な繰り返しが典型である。しかし、ペルセポネーはこの讃歌の中ですでに語られたことを繰り返さない。私たちがこれまで讃歌の中で追ってきた物語を、彼女自身の視点で語り直すのだ。

 ペルセポネーが誘拐される直前まで供にいた友人たちの名前を、彼女はひとりひとり挙げていく(なんと合計23人!)。詩人が「オーケアノスの娘たち」とひとまとめに語った娘たちも、ペルセポネーにとっては、ひとりひとり、違った名前と個性を持つ大切な友達なのだ。
 冒頭で詩人は、ペルセポネーを罠にかけるために大地が萌え出でさせた水仙のたぐいまれな美しさを強調したが、ペルセポネーにとってこの水仙は他の美しい花々のうちの一つでしかない。
 そして、ペルセポネーは、ハーデースが柘榴の種を嫌がる彼女に無理やり食べさせたのだと母親に言う。
 371-72行の、この出来事を描く詩人の地の語りでは、ただ「こっそりと(λάθρῃ)」と食べさせたとあり、暴力的な描写は見られない。
 ペルセポネーは、ハーデースが用いた暴力(βίη)を強調する。彼女の主観では、柘榴の種を食べさせられたことは、実際に暴力的なことだったのだろう。ペルセポネーの語りは、詩人の客観的な語りとは異なっているが、詩人はどちらの見方が「真実」なのか明確に問うことはない。

 私たちはここで、初めてペルセポネーの声を聞く。
 この一節で、ペルセポネーはこの物語の中で初めて、はっきりとした主張、はっきりとした声を獲得する。
 これまでずっと客体として語られていた少女神は、406行からはっきりとした自我をもって私たちの前に現れて、自ら、主体的に語り始めるのだ。

ペルセポネーの声

 ペルセポネーは、自分の身に起こったことを、自分の口から、主観的に話す。彼女にとってこのことを話すのはとてもつらいことだが(433行 ἀχνυμένη)、略奪の卑劣さをちゃんと指摘し、「嫌がったのにむりやりされた、私は声を上げて泣き叫んだ」という。こうして彼女は自分の声を獲得する。つらい出来事に向き合い、言語化して、そして、一度は断ち切られた女同士の絆を回復する 。
 この、自分の身に起こったつらい出来事を言語化・物語化して整理し、誰かと分かち合うというプロセスはとても重要なことだ。(私はここで名著『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』(べッセル・ヴァン・デア・コーク 著、柴田裕之訳、紀伊國屋書店)を思い出す。)ペルセポネーはひとりの人格(神格)として(すべてを母親に代弁してもらう「娘」としてではなく)話し始める。母親の抱擁の中で安心しながら、自分で自分を癒し始めているような感じがする。

 ペルセポネーの父親である神々の王ゼウスも、ヘーリオスも、ハーデース自身も、ハーデースは偉大な神で、夫にふさわしい、望ましい者だという。
だけど、ペルセポネーの考えは違う。
「わたしはいや!」

 父親に決められて、無理やり年上の男性と結婚させられて、母親を恋しがって涙した娘たちが、古代ギリシアにはたくさんいただろう。そして、自分に何の相談もなく、可愛い娘と引き裂かれ、涙を流した母親たちもたくさんいただろう。(また、夫の判断によって、命がけで産んだ子供を捨てられてしまう母親たちも多くいた。)
 そうした母親や娘の声は史料にはほとんど残らないが、何代にもわたって彼女たちは引き裂かれていただろう。
 彼女たちの声は闇の中に葬り去られる運命にあった。
 しかし、デーメーテールは昂然と怒って家父長制へ挑み続け、娘と再会することをあきらめなかったし、ペルセポネーは声を上げて抵抗した。
 結婚が成立してしまった後でも、ペルセポネーは、あれはひどい策略、ひどい暴力だった、私は望んでいなかった、とはっきりと言う。

エレウシースの秘儀

 この讃歌の最後でその創設が歌われているエレウシースの秘儀は、デーメーテールとペルセポネーが入信者を「養子」として受け入れ、慈しんでくれるのだという。「デーメーテール讃歌」は入信者以外にも聞く機会のある讃歌だが、おそらく、この秘儀への入り口になるものである。エレウシースの秘儀は、古代ギリシアで市民=人間とみなされた成人男性以外の人々、つまり女性や奴隷身分の人々も、「手の清らかな(=殺人の罪を犯していない)」人間であれば、あまねく受け入れたらしい。この秘儀が入信者に何をもたらしたのかは「秘儀」であるためはっきりしないのだが、優れた男、良き生まれの男でなくてはならない——という古代ギリシアの主流な価値観や、男性中心主義的な価値観・倫理観に真っ向から挑むような教義や儀礼を持っていたことが断片的に伺い知ることができる(秘儀はイニシエーションを受けた者たちに死後の幸福を約束していたらしい。古代ギリシアで一般的だった、魂は死後冥界で影のようになるという考えや、英雄的な人々にのみ許された「詩に歌われることによる不死」を軽々と越えていく新しい価値観だ)。また、自分で自分の人生を決めることができず、家長の権限で人生を左右されてしまう古代ギリシアの家父長制のなか、秘儀に入信するか否か——このオルタナティブで新しい運命を選ぶかどうかは、女性も奴隷も、自分で選び、決めることができた。
 引き裂かれた女たちは、そして、これから引き裂かれることになる者たちは、娘を失って嘆き悲しむデーメーテールの物語、泣いて母親を求めるペルセポネーの物語に大きく癒されたんじゃないだろうか、と私は思う。偉大な女神たちの大いなる悲しみに寄り添うことで、自分の悲しみが女神たちの悲しみの中に溶けていくように感じられたんじゃないか——自分たちの代わりに抵抗して声を上げる女神たちに救われたんじゃないか——と想像してしまう。

女神たちの抱擁

 終盤、デーメーテールとペルセポネーが再会して抱きしめあっていると、ヘカテーもやってきてペルセポネーを抱擁する。ヘカテーは月の満ち欠けに関係していることがこの讃歌の中でも示唆されている「闇の女神」だが、これ以後、冥界においてペルセポネーに付き従うようになる、とこのシーンで歌われる。ヘカテーも加わった三女神の抱擁によって、母―娘という閉じた二者間の関係から一歩踏み出し、もう一人加わって、そこにひとつの社会が生まれているように見える。ペルセポネーは母親以外の存在とも抱擁し、苦しみと、再会の喜びを分かち合う。——闇の中でも、もう大丈夫。わたしたちはひとりじゃない。
 私にはこの場面が、なぜか、ひどく傷つけられて心がばらばらになってしまった女の子が自分の心を再統合しているように感じられて、どうしようもなく泣けてきてしまう。デーメーテールとペルセポネーが抱き合うところも、ヘカテーがペルセポネーを抱きしめるところも、同じἀμφαγαπαζόμεναι「愛情をこめて抱擁する」という動詞が使われている。この単語から、女神の 抱擁——と同時に、自分自身の抱擁も感じる。
 つらい出来事を自らの言葉で語る。そして、安心できる場所で誰かと分かち合い、自分の苦しみや悲しみを抱きしめる。女神の大きな苦しみや悲しみに寄り添いながら、私たちは女神と闇と自分自身を抱きしめる。私たちの小さな秘儀。

 つらかったでしょうに、お話してくれてありがとう、ペルセポネー。

 そう言いながら、自分がペルセポネーを抱きしめているような気分になるのだ。

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参考文献

一次資料
Allen, T. W. and Monro, D. B (eds.), Hymni, Cyclus, Fragmenta, Margites, Batr, Vitae. Clarendon Press, Oxford, 1963.
逸見喜一郎、片山英男訳『四つのギリシャ神話——『ホメーロス風讃歌』より——』、岩波書店、1985年。
沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讃歌』、ちくま学芸文庫、2004年。

二次資料
Allen, T. W. and Sykes, E. E. and Halliday, W. R. (eds.), The Homeric Hymns. Clarendon Press, 1936.
Foley, Helen P. The Homeric Hymn to Demeter, Translation, Commentary, and Interpretive Essays. Princeton University Press, 1994.
Glück, Louise. Averno. Farrar Straus & Giroux, 2006.
ミルチア・エリアーデ、松村一男訳『世界宗教史2 石器時代からエレウシスの密儀まで(下)』ちくま学芸文庫、2000年
桜井万里子『古代ギリシアの女たち アテナイの現実と夢』、中公新書、1992年。
J.G.フレイザー、吉川信訳『初版 金枝篇〈上〉』、ちくま学芸文庫、2003年。


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