現地コーディネーター:最終話
カズマは馴染んだブルックリンのアパートの外に立っていた。アリゾナから飛行機と電車を乗り継いできた十時間超の記憶と意識は、溜まった疲労と骨まで沁みるような寒さで凍りついてしまったようだ。
隣接する高級コンドミニアムからの街灯で明るく照らされた古い赤煉瓦の建物をカズマは見上げた。自分にの帰る場所。唯一の帰れる場所。旅中に一度も剃らなかった無精髭は急な寒さに驚いたように縮れて、ほったらかしのドレッド髪が冷たくなって頬を撫でる。
トレーディング•ポストで買ったルビーのペンダントを右手に強く握りしめて建物に入ると階段を一つ一つ噛みしめるように登った。そして自室のドアの前に立つ。シャーロットが既に眠っている事を願う。そうすれば何事もなかったかのようにそっとベッドの彼女の隣に体を滑らせる事ができるから。
大きく息を吸い込み白い息を吐くとカズマはベルトループに鎖で繋いだ鍵をドアノブに差し込みゆっくり回した。
リビング奥のベッドルームからは甘いR&Bの曲が流れている。カズマの苦手なジャンルの曲だ。そして曲の合間にシャーロットの声が聞こえたー荒い息づかいに混じった悲鳴のような嬌声。
開っ放しのベッドルームにゆっくり近寄ると、艶かしい声をあげながら上下に飛び跳ねるシャーロットの裸の背中が目に飛び込んだ。カズマはそれ
以上足を前に進められない。
シャーロットが体位を変えてこちら側に振り返る。彼女の恍惚とした瞳が動揺したカズマの瞳と出会う。彼女は反射的に腰の動きを止め、カズマは反射的に目を床に逸らした。その目線の先には二人が出会った時にシャーロットが着ていた赤いドレスがくしゃくしゃに脱ぎ捨てられていた。
時間が止まり、終わりの見えない拷問を受けているようだった。カズマはシャーロットの下で彼女の体を受け止めている男の正体の確認もせずに、シャーロットに力無い微笑を投げかけると今入ったばかりの玄関ドアからそっと出た。
俺のような最低な男には妥当な結末じゃないか、カズマは自分にそう言い聞かせた。でも意識とは裏腹に身体中から力が抜け、カズマは閉めたアパートのドアにもたれたまま座り込んだ。深呼吸をしようとするが息がうまく吸えない。赤いルビーのペンダントがカズマの手から力なく滑り落ちた。
ルビーはカズマの目の前でもぞもぞと動き始める。するとそれは液化して段々と形状を帯び、赤い魚へと姿を変えた。それから三度床の上でピチピチと跳ねると、弾みをつけて宙に浮かび、泳ぎ始めた。カズマは虚ろな意識のまま立ち上がり、よろよろとその赤い魚を追いかけた。
*
夕方の成田エキスプレスは幸い空席だらけだった。旅の高揚感を引きずったまま、飛行機内でほとんど眠る事のできなかったエドウィンは、窓の外を流れるコンクリートの団地群と小さな田園が繰り返される景色を眺める。日本に戻った事に少しずつ実感が沸き、安堵の心地でまどろんだ。
誰かが自分の肩を叩く。鬱陶しく目を開けると車掌が手を差し出している。「チケット、プリーズ」
エドウィンは片言の英語で話しかける車掌に無言で切符を渡す。去っていく車掌の姿を目で追うと、自分が今までアメリカにいたという事が夢だったような気がする。自分の頭の中で全く異なる二つの世界がせめぎあいながら、日本の日常生活に自分を引き戻そうとする強い引力を感じた。
一時間ほどで品川駅に到着すると、エドウィンはバックパックをキャリーケースに乗せて下車した。駅のホームの人波がエドウィンを圧倒する。タイムズスクエアよりもより遥かに行儀の良い雑踏をかき分け、皆がきちんと揃って左側に立ち並ぶエスカレーターに乗り、日本人という人種だけが四方八方から急ぎ足で交錯する改札内のロビーに出る。慣れた場所のはずなのに、どこに足を運べばいいのか急に分からなくなり、エドウィンはその場に立ち尽くした。
アリゾナで出会ったデビッドやウィンドレイザーの顔や言葉が頭をよぎる。フリアナと歩いたバーボン通りでの狂騒―ロニーの雄叫びーニューヨーク初日に川沿いで叫んだ時の恍惚感―自分がここに確かに存在している事。エドウィンは目を閉じて深呼吸し、目を見開いた。
そして、吠える。
無関心な人の群れが一瞬だけ止まり、冷たい視線が自分に集中する。時間が止まると周りの連中の姿が霞んで消えていき、たちまち世界には自分一人しかいなくなった。
静まり返った夜の真ん中へ揺らめきながら進んでいく一匹の赤い魚をカズマはひたすら追った。黒い空から降り始めた大きな雪がカズマの乾いたドレッドロックを滴う。掴もうとすればするほどにその魚は嘲笑うように近づいたり遠ざかったりを繰り返し、カズマの手を何度もすり抜けた。
数日前の雪は既に凍りついて、その上に降り注ぐ新しい雪は足跡や車の轍を埋めるようにどんどん勢いを強めていく。カズマは何度も凍った路面に足を滑らしそうになりながら前に進んだ。この魚は一体自分をどこまで連れていくつもりなのか。
突如目の前が真っ暗になり、大きな衝撃音が続いた。
閉まった食料品店のシャッターに頭を打ち付けたようだ。カズマは訳もわからずふと顔を上げると目の前に大柄な男が二人、不敵な笑みを浮かべ死んだ眼でこちらを睨んでいる。カズマは脇腹に鈍い痛みを感じ、自分が体当たりされたのだと気づく。
「ヘイ、マザーファッキンチャイニーズ、財布出せ…」
浅黒い額に十字架のタトゥーを入れた男は片手に持ったナイフをカズマの首元にあてた。訛りの強い英語で後半の言葉はほとんど判別できない。自分と同じ移民に強盗されるなんて皮肉だな、とカズマは思った。もう一人の男がスペイン語で何かまくしたて、カズマのポケットから財布を素早く奪い取り、中身を物色する。中には二十ドル札三枚と一枚のクレジットカードしか入っていない。
「これだけかよ。とっとと故郷に帰んな」
男は現金とカードを抜き取って財布を投げ捨てた。そして十字架タトゥーの男がカズマの腹に膝蹴りを入れる。カズマは力なくよろめき悶絶しつつも男の顔を見上げて挑発的に笑った。すかさず指輪をした拳がカズマの右頬をかすめ鼻頭に直撃する。
カズマは笑みを保ったまま左頬を差し出した。
「俺に帰る所なんてない、クソ野郎。オレには何もないんだ」
男たちの顔に一瞬哀れみの情が浮かぶ。スペイン語で何やら話し合った後、野良犬を見るようにカズマを一瞥して立ち去っていく。
彼らの後ろ姿を見送るとカズマは気が緩んだように雪の絨毯に倒れこみ、星の見えない黒い空をぼんやりと眺めた。朝日はいつ昇るのだろうか?赤い魚はどこに行ったのだろうか?朦朧とする頭を叩きながらカズマは目を瞑った。鼻血が溢れ出て不精髭の上に流れる。カズマは永遠と輪廻、そしてカルマのことについて考える。ロニーの事を思い出す。ルーシーは裏切ったのではない、そうするしかなかったのだ。もしかしたら理由さえなかったのかもしれない。自分はシャーロットによって救われた。この惨めな自分の姿―全てを失った自分は彼女と出会う前の自分に戻っただけ、本来の姿なのだ。
遠くの空に薄っすらと朝の気配が感じられる。カズマはようやく立ち上がり、ぼんやりとした光を頼りに足を引きずって水辺に向かった。声は掠れて叫ぶこともできない。
*
席の埋まった電車の中では他の乗客も皆揃って能面のような顔でそれぞれに携帯を眺めている。今この中で一番幸せなのは自分なのだ―エドウィンはそう思い込むことにし、いつものヘッドフォンを着けた。
自由ヶ丘の駅を降りると見慣れた顔が改札を出たすぐのところで待っていた。一人で帰るから家にいろと伝えたのに、相変わらず人の話を聞かない父親だ。そう思いながらも唯一無二の自分の父ジェフの顔に、今まで抱いたことのない愛着心が湧きあがってくる。
「久しぶり」
エドウィンは努めて普段通りのぶっきらぼうさで言葉をかけた。
「久しぶり」
ジェフも同じ言葉を返しエドウィンのキャリーケースを引き取ろうとするが、エドウィンは譲らず自分でそれを転がし続ける。
「少しだけ、男らしい顔になったネ」
ジェフはからかうようにエドウィンに言う。
「そうかな?そっちは少しだけ、老けたんじゃない?」
エドウィンが軽口を叩くとジェフは苦笑する。
二人は駅前の駐車場まで横並びに歩く。同じ歩幅と、同じ速度で。近くも遠くもない一定の距離感をとりながら。
「旅はどうだっタ?」
簡単に答えられるわけがなかった。
「その話は家に着いたらまとめてするよ。どうせ母さんにも同じ話するんだろうし」
「それもそうダ」
「親父、俺考えたんだ」
エドウィンは一つだけ大事なことを今言っておこうと思う。
「何?」
「卒業後、親父の会社で働くのはやめるよ」
ジェフは面食らって足を止める。
「何で?何を考えてるノ?」
エドウィンも足を止め、緊張したように大きく息を吐くと、ジェフの目をじっと見据えた。
「音のエンジニアの所で見習いする」
ジェフは呆気にとられてエドウィンの瞳を覗き込んだ。そこには今までの彼には見たことの無い力強さが見られた。
「何言ってんダ、もううちの会社で内定決まっただろ?」
「取り消してほしい。ごめんなさい」
エドウィンは深々と頭をさげる。ジェフは厳しい表情でエドウィンに問いかける。
「音作りなんて簡単な仕事じゃないヨ。特に未経験シャには。なんで突然そんな事を?」
「もちろんそれはわかってる。最初はインターンでもパシリでもなんでもするよ。ずっと前からやりたいとは思ってたんだ。親父は知らないだろうけど。自分で音のミックスも作ったりしてたんだ。でもずっと抑えてた。プロとしてできるわけなんかないだろうって」
エドウィンの言葉に珍しく熱がこもっている。それに飲み込まれてしまわないようにジェフは少しだけ距離をあけ、エドウィンの次の言葉を待つ。
「でも思ったんだ。これが本気でやりたいって。もしかしたら全然ダメかもしれない。でもトライするくらいいいじゃん。もう後悔したくないし、自分の力で生きたいんだ」
「そうか、がっかりだヨ」
そう言いながらも顔が綻んできて、ジェフはそれを隠すようにエドウィンから顔を逸らす。視線の先には沈んでいく夕陽が見えた。ジェフは目を細めながらそれを数秒眺め、また歩き出す。
「まあいいよ、未来は君のものだ」
エドウィンは一瞬ドキッとする。そして体の奥が熱くなっていく。
「旅に出たのは間違いじゃなかったってことダネ?」
ジェフが得意げにエドウィンの顔をまた覗き込むと、エドウィンは少し照れくさそうに頷いた。
「カズマはいいコーディネーターだった?」
エドウィンはその名前になんだか懐かしさを覚える。つい昨日まで一緒だったという事実がもう遠い昔のようだ。
「それは難しい質問だね。クレイジーだったよ。まあ合格かな」
ジェフが思わず声をあげて笑うと、エドウィンもつられるように笑う。
「Dad」
突然のエドウィンの英語にジェフは耳を疑う。エドウィンは少しはにかんで続ける。
「Thank you」
ジェフは弾けそうな嬉しさを抑え、エドウィンの肩を軽く叩く。
「You are welcome, son」
駐車場が見えてきた。ジェフの自慢のBMWが停まっている。グランドキャニオンで見たのとは全く別物のような淡い東京の夕陽がきれいに舗装された路面を照らしている。エドウィンは運転したい衝動に駆られるが踏みとどまる。父の築いてきたものを使うのは自活できるようになるまでお預けだ。
そして二人は同じ距離のまま、同じペースで足を進めた。
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