年商100万から1000万へ 年間5400時間労働から、星付きレストラン御用達農家になるまで その1
という、刺激的なタイトルから始まりました。
果たして、ミーはどんな道のりでこんなスタイルの農家になったのか。
ミーの代表、真野文宏の半生を綴るシリーズです。
真野文宏が農家(新規就農者)になったのは2015年五月。
それ以前は、ピアノ弾いてました。ミュージシャンだったんですよ。
12歳から独学でピアノを弾き出してから35歳くらいまで、ずーーっと音楽と表現と、人生の在り方のことしか考えてない人生でした(笑)朝起きてから寝るときまで、頭の中は美しいものと可愛いものでいっぱい!みたいな。
ライブ出演、楽曲制作、アレンジ、レストランでBGMなど弾いて、ギャラもらってました。30代に入ると長男も生まれ、音楽でプロになることとに軸足おいて活動していました。20代は伝えることが苦手で、自分と世の中の折り合いがつかずにうまくいかなかった時期もありましたが、自分を受け入れられるようになってから、友達も仕事も増え、世の中に認められつつあり、自分を愛せるようになってきた、そんな頃でした。
東日本大震災が起こります。
原発事故は音楽と自分の事だけ考えていた価値観を大きく変えた出来事でした。当時、リアルタイムに届く情報に接し、原発がなぜここまで日本中に広まり、今回事故になったのかを調べていく中で、「この先、誰もが当事者になる可能性がある」「国はいざという時、本質的にはなにもしない」そして、「今、自分の音楽になにができるだろう」と考えました。
自分の考えはこうでした。あくまで自分の場合ですよ。
「音楽は、住む場所、食べるもの、飲む水、安心できる場所と(家族、友人)コミュニティがあって、はじめて心に寄り添うものとして機能することができる」
「このまま消費し続ける経済社会から大きく舵を切るためには、土を意識し、人間が土からの循環のひとつの役割を果たそうとする意識、いのちの生まれる原点にたちかえろうとするひとりひとりの行動、ではないか」
「ひとりひとり気づいた者から、自分のできることを、意識して行動変容を起こすことでしか世の中の経済最優先の消費傾向を変えられる手段はない」
「自分にとっての音楽は、例えば50歳になったとき、その時の音で、その時の仲間と、その時のお客様の前でその時の音を受け入れられればよいのではないか」
こうして考えられるようになったのは家庭を持ったこと、当時3歳の息子の存在が大きく影響していると思います。
なにができるかわからないが、とりあえず、家庭菜園でもやろう!家族で野菜つくるんじゃあああ
これ決めた時、それまで何年もの悶々とした気持ちが一気に吹っ切れたことを思い出します。
2013年でした。「音楽、やめる!!」「家庭菜園やるー!!」と妻にいって、とりあえずホームセンターで鍬と鎌買って、「ところで、畑ってどこにあるの?」状態で農民の世界に飛び込んだのでありました。
その時も、今も、自分の軸としてあるのは、
「経済が機能しなくなった社会でも、土とタネがあれば、人はまた一から始められる」
それが自分の農に向かった大きな気づきでした。コロナの時もなんども思い出した言葉でした。
こうして、農の世界に入り、
「美しいものを愛する真野文宏が魂の仕事に出逢って行くこと」
と、
「子どもたちの未来に少しでも美しい環境を残していける農業」
と、
「最も大きく経済を回す人たちが集まる場所へ、こだわった農作物をダイナミックに、アプローチしていく」
の3つを両立させる、現在のミーの取り組みに繋がっていくのです。
前回のマイクロリーフ反収の話と、真野文宏の農への魂の話が、この先紡がれてゆきます。
というわけで真野文宏、音楽人生第1章の最晩年(笑)にリリースした唯一のピアノアルバムの曲をどうぞ。
余談ですが、この楽曲群、友達の「sakura」をテーマにした個展のサウンドトラックとして桜の一生をテーマに書き下ろしたんですけど、あまりに今農民として毎日目にしている季節の移り変わり、生長、生と死について今の自分でもこう表現するな、と思うので、アーティスト名 ミー として再リリースしようと思ってます。形態は未定です。
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