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生きるとは

「生きるとは何なのだろう」
僕は、そんなことをよく思う。きっと、そんなことを誰かの前で口にすれば、「えっ、大丈夫?」って言われるだろうし、それが友達だったら、心配して、「話聞くから呑みに行こう」と言ってくれるのかもしれない。もしかしたら、僕もまた、急に誰かがそんなことを言い始めたら「大丈夫?」って思うのかもしれない。ただ、初めに言っておくとすれば、これは、全くもって暗い話ではない。自分の中では、その疑問に対し、ネガティブな感情は全くなく、ただ単純に知的好奇心の対象として存在している。だから、もちろん、何かの人間関係で悩んでいるわけでも、体の調子が悪くて落ち込んでいるわけでも、お金が無くて困っているということでもない。むしろ、どちらかと言えば、色々と日々好きなことをやって、人生を堪能している方だと思う。でも、ポジティブな意味もネガティブな意味もなく、ただただ生粋に思うのだ。
「生きるとはなんで、そして、なんのために生きてるんだろう」と。

こういったことを口にした人に対して、他の人が多少なりとも表情を歪めるのは、生きるということの背後に、「死」の存在が見え隠れしているからなのだと思う。死は我々にとっては、何かの終わりを意味するものであり、それは悲しいことであり、辛いことであり、暗いことである。それは、多くの人にとっては「怖いもの」なのだ。だから、悲しい想いはしたくないから、辛いことは考えたくないから、暗くなりたくないから、楽しい気分でいたいから、美しいものだけを見ていたいから、そこから逃げるように、臭いものに蓋をするように、そっと思考を止めて、それを見なかったことにしようとしている。もしかしたら、昔から不死を求めている人がいることを思えば、あわよくば、それを無いものにすらしようとしているのかもしれない。そのため、そんな、蓋を開けるようとする変な奴に対しては、嫌悪感に似た何かを抱くのかもしれない。
でも、時間というものがあり、時の間が存在するとすれば、そこには、必ず始まりと終わりがある。そうしなければ、「間」というものが存在できない。 つまり、生と死もまた切り離すことなんて出来ず、生を考えることは、同時に死を考えることでもあり、僕らは、今、その間にいるということになる。ラテン語に「メメントモリ」という言葉がある。直訳すると「死を想え」という意味である。死に想いを馳せることで、生と対峙するということは、昔の人の感覚の中にもあったということなのだろう。でも、きっと、そんな表情を歪めた人も、本当はわかっている。「生きるってなんだろう」なんて問いは、誰もが一度は考えたことがあるはずだということを。
考えてみれば、生きるというのは、本当に不思議なものである。別に、自らの意思でこの世に生を受けたわけでもないのに(意思であるという考え方をする人もいるかもしれないが)、気がついた時には、この生は既に始まっていて、そして、ある時知ってしまう。
「どうやらこれは死に向かっていってるみたいで、避けられそうにない」と。
言葉が適切ではないかもしれないが、それは、基本的には自ら降りることの許されないゲームに強制的に参加させられて、「いずれ終わるので、それまで頑張って下さい」というルール説明を与えられたのみで、わけもわからぬまま、ゲームが進んでいくようなものなのかもしれない。

多くの人は、死は終わりだと思っていると思うが、本当のところは、実際に死を体験してみないとわからない。死はその人にしかわかりえないものであり、それどころか、生きている間に死を体験できないことを思えば、もしかしたら、死が何かを僕らは永遠に理解することができないのかもしれないし、それはつまり、その人の中では、死というものはそもそも存在すらしないことになる。僕らが「死」だと思っているそれは、現世を生きる人間が、心臓が止まった状態を、脳が止まった状態を「死」であると勝手に定義したに過ぎない。いずれにせよ、死を怖いものだと思うのは、それが全く以って得体の知れないものだと捉えているからなのだろう。

もし仮に、死を「終焉」と仮定するなら、死がない世界というのも、考えてみると、それはそれでとても恐ろしい。終わりのない世界。終われない世界。永遠続く世界。もうやめたいのにやめられない世界。やめさせてもらえない世界。そんなことを思うと、死があってよかったなぁと思う。終わりがあるから、その刹那の中に、美しさを見る。きっと、問題なのは、基本的には、その方法と、そのタイミングを自分で決めることが出来ないというところにあるんだと思う。でも、これも仮の話。死が訪れたとしても、それからも何かが続いていく可能性はゼロではない。なにせ、死を証明できるものが何もないのだから。ニーチェが気を狂わせたのも、全てが繋がっていることを悟ってしまい、死んだとしても、永遠に終われないことを理解してしまったということもあるような気がしている。仏教でも、輪廻転生の考え方もあるし、キリスト教でも、天国と地獄の概念があるように、死後の世界があると信じている人は実際に沢山いる。そして、そんな確かなことがないことをぼんやりと考えていると、いつも、僕は、こんなこと思ってしまう。
「生と死はセットであって、死というものが証明できないのだとしたら、それはイコール、生きているということも証明できないということになる。だとするならば、果たして、僕は本当に『生きているのだろうか』」と。

「強制的に参加させられた『生』というゲームの中で何をしていこう」
きっと、無意識ではあるが、僕はそんなことを日々考えているのだと思う。考えてみると、このゲームを進める上での、絶対にやらなければいけないことはそれほど多くないことに気づく。
「食べること」
命を継続させていくことにフォーカスすれば、やるべきはこれだけのような気がする。動物には食欲、睡眠欲、性欲(排泄欲)という三大欲があると言われているが、食べれば勝手に排泄し、眠くなれば自然と寝てしまうことを思うと、能動的に行わないといけないのは食べることだけだ。そう考えれば、「衣食住」という生活の基本と言われているものでも、「衣」 と「住」は付属するものに過ぎないことのように思えてくる(寒い場所においてはもちろん必要になるが)。食べること以外の他のことは、基本、全て「生きる」という概念を広げていく中で、必要になってるる「こと」や「もの」なのかもしれない。人との関わりの中で社会生活を営むために「衣」が必要になり、よりよく眠るために「住」が必要になる。つまり、突き詰めていけば「生きることは食べること」と言うこともできるのだろう。そんなことに気がついた時から、僕は、この「食べる」ということに少し興味が湧いてくるようになった。 それは、別に、贅沢なものを食べたいということでも(おいしいに越したことないけど)、体に良いものを食べたいということでもない(栄養があるに越したことないけど)。食べるものさえ自分で確保出来れば、生きていくことができる。究極的には、生きる上で、服も、 家も、お金も、経済も、社会も関係ない。それがなんだか、面白いと思った。

そんな中、とりあえずはじめてみたのが、家庭菜園だった。はじめてみると、野菜を育てるのはすごく難しいことであると実感した。種まきの時期、土の管理、害虫の管理、水の量、肥料のタ イミング、間引き、連作の問題等、色々な複合的な要素があって、初めて野菜が出来る。経済のおかげで、お金さえあれば、スーパー等で簡単に野菜手に入るが、食べ物を作るということ、生きる糧を自らの手で作るということは、容易いものではないことを身をもって痛感した。そして、その土も、肥料も、種も、プランターも、土の微生物も、日光も、水も、自分で作っていないことに気づき、過去現在未来その他全てのこの世界の物事は繋がっていて、それが、ただひたすらに形を変えて廻り廻り、僕はただその恩恵を受けているだけであることを知る。軌跡のようなその自然の持つ複雑性と、そのエネルギーと、その美しきバランスの前で、僕はただただ、畏敬の念を抱き、立ち尽くすことしかできないことを思い知らされたのである。

数年前の、ある日、こんなことを思った。
「もし、生きるということが、行為の総称だとするのであれば、僕らが日々どんな行動をとっているのかを見ていけば、生というものを捉えることができるかもしれない」
来る日も来る日も、自分の行動を振り返ってみたり、人の様子を観察したりした。そして、数日たった後、ある一つの結論に至った。
生きるとは「不快を取り除く、もしくは快を求める行為の総称」かもしれないと。
食欲、睡眠欲、性欲(排泄欲)の三大欲求は、まさにそうだ。お腹が減ると不快になる。なので、食べることによって、それを解消させる。もしくは、快を得る。睡眠も同じだ。眠いと不快だから、それを取り除くために寝る。そして、よく寝られた日には、早朝心地よい快感がある。性欲もしくは排泄は、たまると不快だから、それを発散させることで快を得る。きっと、これは全ての行為において同じことが言える。例えば、今、こうして僕は文字を書いているが、もちろん誰に頼まれたわけでもない。でも、書いている。それは、きっと、書かないより書いた方が僕にとっては心地いいと判断したからからなのだろう。もし、仮に、この文章を誰かの命令の元、書かされていたとする。でも、本当は全然書きたくなかったとする。それでも、僕は、書くという選択をした。嫌なのにも関わらず書くという行為を選択した。それは、きっと、僕にとっては命令を無視するよりも、従った方が、意識的か無意識的かはわからないが、不快の度合いが低いと判断したからだ。上司の評価が下がることを恐れたのかもしれないし、給料がさがるのを恐れたのかもしれないし、言われたことをきちんと出来ない自分が嫌だったのかもしれないし、その理由はわからないが、「書かない」という選択肢があるにも関わらず、敢えて「書く」という選択をすることで、自分にとってはより快である方を選んだのである。

そう考えると、全ての行為、つまり、生きるということは、自分の為にやったことの総称で、つまりは、「エゴ」そのものなのかもしれない。世の中には「他の人のために何かをやる」 という素晴らしい人がいる。あの強い正義感は一体どこから来たのかと、本当に頭が上がらないことが多々ある。それでも、究極的には、それすらも自分の為の行為を超えることは出来ないと思っている。それは、相手を放っておけないという衝動なのかもしれないし、自分の中の使命感がそれを見過ごすことを許せないのかもしれない。だから思う。エゴであることは何も悪いことではないと。むしろ、エゴを超えた行為は存在し得るのかと、そんな疑問すら抱いている。リチャード・ドーキンスは名著「利己的な遺伝子」の中で、「一見すると利他的な行為だったとしても、我々の遺伝子は常に利己的である」といったような旨のことを言っていたが、やはり、本質的にはいついかなる時も、我々は利己的な選択をしているということのような気がしている。

そうすると一つの疑問が生まれる。
「もし、全ての人の、全ての行為が利己的であるなら、何故、これほどまでに、人々の行為に差が生まれるのだろう」と。
誰かのために、何かのために、懸命に汗を流す人もいる一方で、周りの人を全て蹴落としてでも自分が良い思いをしようとする人がいるのは、一体何故なのか。きっと、正しい答えはないが、僕は、そこには 「自分」というものの捉え方の違いがあるような気がしている。
「自分とは何なのか」
定義は様々あると思うが、自分以外の誰かの為に、何かの為に行動が出来る人は、自分の概念が広いのだと思う。前述したように、もし、この世の全ての事柄が繋がっているのだとすれば、究極的には「全ては自分」ということもできる。目の前の自然も自分の一部だし、目の前の困っている人も自分の一部。「人は自分の為にしか行動が出来ない」ということを考えれば、きっと、それは、自分の為に自然を守り、自分の為に困った人を助けているということなのだと思う。

「僕は一体何のために生きているのか」
それは、自分が述べてきたことからすれば、そこに理由などなく、ただただ頂いた生を、終わりが来るまで利己的に行動し続けるということなのだろう。実際に、今までも、何か特別な使命感とかも感じたことはないし、悲しいかな、いくら意識しても誰かのためにという思いが全然湧き出てこない。だから、時に、他の人の本当の優しさに触れた時や、目にした時に、たじろぐことがある。自分にはない感覚を目の前にすると、人はこんなにも動揺するのかと、折に触れて思うとともに、その度に、優しさのもつエネルギーに圧倒されてしまうのである。 きっと、僕は「自分」の概念が狭い。全ての物事は繋がっていると、頭では理解していても、気持ちが全然追いついてこない。たぶん、本当は、働くということもしたくないんだと思う。 働くとは、「傍を楽にすること」であり、その傍を楽にした対価として、お金や地位や賞賛が生じるということを考えれば、本質的に利己的な僕には、傍の為に生きるということが出来ない。その気持ちが湧いてこない。だから、おそらくこれからもまた変わっていくと思うが、わがままな現時点での理想を言えば、出来る限り自らの生活を自給自足し、本や映画等からインプットをし、何の価値も、誰の評価も目も気にせず、作りたい作品だけを只管に作り続けてアウトプットをし、それが結果として、奇跡的に誰かのためになったというようなラッキーがあれば、そんなに素敵な人生はないと、そんなことを思っているような気がする。
登山家で写真家でもある石川直樹さんの本に「全ての装置を知恵に置き換えること」という作品がある。僕が間違った解釈をしている可能性は大いにあるが、究極は「裸一貫でも生きていけるということが理想」という旨を述べていたと認識している。食べ物がないなら、知恵を使って作っていく。服がないなら、知恵を使って作っていく。住むところがないなら、知恵を使って作っていく。便利な世の中になって、ある意味では、お金さえあれば何でも手に入れることが出来るようになったが、もし、何かのきっかけで経済が機能しなくなった時には、そのお金には何の価値もなく、自分以外のものに依存してきた人は、生活をアウトソーシングしてきた人は、途端に途方に暮れることになる。だから、真に一番強い人間とは、どんなに悲惨な状況であっても、その知恵を使って生き抜くことが出来る、生き抜こうとする意思を持った、そんな人間のような気がしているし、少しでも、自分もそうありたいと思っているところはあるのかもしれない。
ただ、本当にラッキーだったと言うか、救われたなぁと思うのは、僕には世の中のことを知りたいという知的好奇心があったということ。知的好奇心を満たすという行為そのものは、自分の為以外の何ものでもないが、知りたいと願い、世の中の事柄を自分なりに理解していくと、そこに不自然さを感じることがある。そうすると、当然だが、自分の中で不快が生じ、自ずとそれを取り除こうとする自分の為の行動に出る。それが、結果的に、利他のように見えるような行動になってたりすることもある。もし、この好奇心がなかったら、今頃僕は、狭い「自分」という概念の中で利己的に生き続けることになり、人間関係に支障をきたし、社会生活すらままならなかったかもしれない。

上司や周りの人が、社会の正しさを押し付けてきたりする。テレビの画面には、人生うまくいっているように見える有名人たちがニコニコと笑っている。本屋に行けば、成功者が書いた成功するための極意が詰まった本が、至る所に並んでいる。人は時に、そんなものを目にすると、「自分は何をやっても上手くいかないから間違っているんじゃないか」とか「自分は人とは何か違うから間違っているんじゃないか」とか、そんなことを思ってしまって、落ち込んだりしてしまうことがある。きっと、真面目な人ほど、そう思うのかもしれない。でも、もし、そんなふうに落ち込んでしまっている人がいるなら、こんなことを頭の片隅にいれておいたら、ふとした 拍子に役に立つことがあるかもしれない。
世の中に溢れる、正しさは、成功は、一見正しいように見える。実際に、それは正しいのかもしれないし、お金に糸目をつけず生活をしている人を見れば、誰が見てもそれは成功しているようにも見える。でも、それは、あくまでも、「現時点」であり、その「環境」においてはという話である。上手く出来るように試行錯誤を繰り返すことは、もちろん大切なことだと思う。でも、その「正しさ」や「成功」は絶対的なものではない。時代が変われば、場所が変われば、文化が変われば、価値観が変われば、状況が変われば、相対するものが変われば、その正しさもまた変わる。つまり、そのあり方そのものに、「正しさ」も「成功」も何もないのだ。一見正しそうに見えるそれは、力を持った人が「それを正しい世界」と勝手に決めたことなのだ。
人生において「正しく生きたい」、「成功したい」と思うことは、実に自然なことだ。僕自身もまたそう思っているはずである。でも、この世には絶対的な正解は存在しない。じゃあ、そんな中で、一体僕らはどうすればいいのか。そう、それは「自分で決める」ということだ。 自分で正しさや成功を定義して、そこへ向かって邁進するのだ。その自分で決めた正しさの定義は誰にも文句は言わせない。なにせ、絶対的な正しさなどないのだから。

改めて、考えてみると、それもそのはずだと思う。誰一人、死を証明できず、生を証明することができないという、実に曖昧なものの中でしか我々は生きていくことが出来ないのだから、そんな曖昧な世界の中で起こる全ての事象に、正しいもなにもない。もちろん、様々な人や物との関わりの中で社会生活を送るために、最低限の共通のルールは必要だと思う。でも、そのルールすらも、決して絶対的に正しいものではなく、時や状況と共に形を変えていくべきものなのだろう。
そんなことを思うと、自然という地球の全てを構成する偉大なものに対する畏敬の念を持ち続けると共に、それぞれが自分の意思で決めた生き方を、正しさを、未来永劫、誰もが選択でき、挑戦できる世界こそが、この曖昧な世界における理想のような気が僕はしている。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!