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ねずみの涙のかがやき(エッセイ/2016/「新春文芸」応募作)

「ねずみじゃ。電話線をかみちぎったと」

 食事中、畳敷きの居間がふるえたとき、祖母がつぶやいた。

  「いつの時代だよ」と父はあきれて笑った。見上げると、天井裏をずぶとい足音が過ぎていった。

 僕はねずみのせいでつながらなくなった電話を想像した。今日はスマートフォンを家に置いてきた。親戚からもらい、祖母が大胆にも全部からあげにしたクロダイの骨が、食卓で潮のにおいを放っていた。

 どうしていやなことばかり思い出されるのだろう。 

 僕は五月に大学をやめた。授業に出るどころか、若者であふれる構内にいることすら苦しかった。気力も体力も尽き果て、中途退学の手続きをした。五年目だった。留年しても意地を張っていたのだ。 

 残ったのはつらい記憶だけだ。

 大学へ行く道を歩くのが怖かった。心療内科の先生に怒られた。帰ってきた鹿児島の実家で過ごす今、やはり昔のさびしさを振り返る。高校で友だちと仲良くなれなかった。クラスの卒業祝いのパーティーに参加しなかった。

 いつだってそうだ。悲しい過去や、恥ずかしい経験ばかりおぼえている。楽しかったことなんてほとんどない気がする。 

 五歳までは祖父母の暮らす種子島で育った。ものごころのつく前だ。そんな土地に失望の記憶はあるわけがない。気楽なのだ。誰とも連絡をとりたくないと強がってスマートフォンを持たず、父と母と三人で帰省した。お盆にたった一泊するだけ。

「明日は何時に起きっと」

 母がたずねると、祖母は当然のように答えた。

「四時じゃな」

 夏でも真っ暗だろう。外灯のない田舎では一寸先も見えないはずだ。暗い道はおそろしい。視覚が頼りにならないから。けれども僕は、見えるものを素直に信じるほど、何かを見てきていない。頭にうずまく考えこそがすべてだった。

 夜中、うまく眠れなかった。「暑いな」と父が言った。確かに寝苦しい夜だ。汗がにじむ。のどがかわく。

 でもそれだけではない。落ち着かないのだ。何も考えなくてすむからこそ、胸がざわつく。布団にもぐるとわきあがるはずの苦悩を、どこかなつかしい山奥の静けさが打ち消している。悲観する時間ではないのか。泣きたい気分にならなくていいのか。スマートフォンは枕元にない。この気持ちの正体は調べてもわからないだろうと、うすうす気づいている。ねずみは寝ただろうか。何も聞こえない。やがて慣れない無音が遠ざかり、短い眠りから覚めると、四時だった。

 寝間着のシャツと短パンのまま靴を履いた。すりガラスのきしんだ引き戸を開ける。いつもぬかるんでいる土を踏む。湿った草木のあいだを抜ける。庭の細い道を進んでいく。夜明け前なのにまわりがよく見える。なぜだろうか。寝不足で頭がはたらかない。黙って歩いていると、考えるより先に、わかった。

 木造の車庫で待つ父のもとへたどりついたときだった。顔は上げていない。視界へ入り込んだのだ。三か月前まで一人で暮らした、五階の部屋より低くに、広がっていた。

 星空だった。
 遠くまで満ちる星空だった。

 目を見開いた。夜の暗さを知った。星の明るさがわかった。ずっと眠っていたかがやきだった。初めて見る気がして、でも記憶を探そうとする、不思議な光景だ。

「近いね」と父が言った。そうだ。星の距離は近づく。数だって増える。僕の立つ位置と見方で変わる。そして気づかせてくれる。 

 つらいことばかりではない。楽しさやよろこびも、少ないけれど、確かにあった。 

 大学への道は歌を口ずさんで乗りこえた。心療内科の先生に励まされた。高校生のころも同じだ。卒業アルバムの最後に「ゆっくり生きるべし」と友だちが書いてくれた。パーティーの時間にその言葉をかみしめると切なくあたたかくなった。

 僕が見て見ぬふりをする星はいつでもそこにあった。先の見えない夜にまたたいた。五歳まで過ごした島の空がはじまりだ。たれ流す鼻水はすきとおる。泣いたあとのほっぺたはきらめく。居場所が変わってもいつまでも笑顔を照らし続ける、そんな約束の光を映しただろう。

 星座を忘れていた。夏の大三角はどれだろうか。隣に立つ母と話し合う。夜空へ伸ばした指を動かす。星を結びつけよう。かたちを胸に刻もう。スマートフォンはないから写真は撮れない。だから帰ったら教えてあげたい。思い出した美しさを伝えたい。ふるさとの星をなつかしむ人たちのために。天井裏の暗やみでもがき、電話線をかじり、涙を流すねずみのために。

(了)


●地元の新聞社の「新春文芸」に、毎年エッセイを応募しています。入選作は正月の紙面に掲載されるのですが、拙作は今のところ、載ったことがありません。現時点で4年ぶんあるので、ひとつずつ投稿していきたいと思います。

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