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公務員と建築。#2 進路選択と鬱病

学生時代の進路選択から大学入学までのお話。伝えたいこと。

迷わなかった。でも茨の道でしかなかった。

小学4年生のある日父とスーパーに買い物に行った帰りに突然学習塾に連れて行かれ、中学受験をすることになった。最初は良くわからなかったが、後から理由を聞くと父は公務員で土地や財産を残してあげられないけど、「教育」「知性」を生きる力=財産として残したいという考えからだったらしい。

受験勉強が始まった。社会科と国語は難関校レベル。ただ、算数が壊滅的に出来なかった。偏差値が伸びず、苦手意識だけが膨らんでしまい、数字や公式を見るだけでクラクラした。受験本番もこの算数への苦手意識が足を引っ張り希望の学校に合格出来なかった。いくつか志望校があった中でなんとか1校だけ合格し入学した。建築に必須の数学は入学しても成績は伸びなかった。でも必死でついていった。高校1年生で大学受験の準備が始まる時、私は女子大の住居学や家政学科のインテリアコースなどを視野に入れていた。工学部の建築学科なんて受かる自信はなかった。工学部を受験するには特別進学理系クラスに入り、物理や難易度の高い数学Ⅲ・Cを履修する必要があった。

「特進理系なんて無理」

進路希望調査表を担任の先生に出した。すると先生が、「Mizukiさんは、工学部の建築学科に行った方がいいと思うよ。住居だけじゃなくてもっと建築のことを幅広く学べるところに行った方がいいと思うよ。あなたは建築学科にいく人だよ。特進理系の選抜テスト受けてみない?」

研究論文を提出する授業で建築について研究して出したのを見て言ってくれたんだと思う。下駄箱の前のソファで熱く話してくれたのを今でも覚えている。

先生の一言で特進クラスの選抜試験の為に勉強を始め、成績は合格者の中で下から2番目くらいだったけど滑り込んだ。私にとっては奇跡でしかなかった。特進理系クラスは、看護師、薬剤師、医師、その他医療関係、化学系の専門家を目指す子達が集まって高校2年、3年の2年間一緒に学んだ。当たり前だけど、みんな理系科目が得意。成績はいつも平均以下だった。

分からないことが多すぎて先生に質問に行って、一生懸命説明してくれる先生の言ってることも理解できなくて呆れられたことは何度もあった。でも担任の先生は最後まで見放さないで夢を応援し続けてくれた。

鬱病と大学受験。

中学2年の終わり頃、食べても胃が受け付けず吐いてしまう日が続いた。病院で診察を受けると診断結果はストレス性胃炎だった。この頃、父と母の夫婦関係が悪化していた。父は姉歯一級建築士の構造計算偽装事件後の建築基準法改定の対応に追われて、家に帰って来ない日が続いていた。そんな中、母は乳がんの診断を受けていた。夫婦喧嘩は激しくなり、家庭内の空気は最悪だった。子供の時から毎日両親の怒鳴り合いを聞き続け、精神だけでなく体も異変を起こしていた。家庭崩壊寸前だった。この頃から医師の勧めで児童相談所のカウンセリングを受けることになった。児童相談所では専任の医師のカウンセリングも受けていた。その後、医師から鬱病の可能性があるから一度精神科を受診するように勧められ、その医師が勤務する大学病院で検査を受け鬱病の診断を受けた。その後入院するまで症状は悪化した。しばらく学校を休んだけど、入院が長引き、入院先の病院に制服と教科書を持ち込んで病院から通学した。私の強い希望だった。今思うと、鬱病の自分を受け入れられず、周りの友達みたいに普通の女子中学生でいたかったんだと思う。(病院が柔軟に対応してくれたことに今でも本当に感謝している。)自分の希望だったものの、学校では周りの友達に気付かれたくなくて、明るく振る舞い普通のふりをし続けたがその無理には限界があった。毎日昼休みに保健室に駆け込んだ。そのまま午後の授業に出れないこともあった。養護教諭の先生は優しく私の話を聞いてくれていつでも休みに来ていいと逃げ場を作ってくれた。休むべき時は無理せず休みなさいとその時の自分に言ってやりたい。

退院後治療を続けながら高校1年生は比較的順調に回復していたが、高校2年生の時に2度目の波がくる。

退院しても家庭の環境は変わらなかった。ずっと離婚は嫌だと思っていた。自分や妹が両親を繋ぎ止める役目にならないと家族がバラバラになってしまう恐怖もあった。両親は私たちの為に離婚をしないと言っていたが、ある日もうこの夫婦は限界だと悟った。ずっと守りたかった家族を解散することでしか状況は改善されないと思った。父と母がいつも通り口論していたとき勇気を出して「二人共もう別れていいよ。お母さん、千葉のおばあちゃんの家でしばらく暮らしてゆっくりしてもいいんじゃない?」と私が言った。その時母が「何で私がでていかなきゃならないのよ!!何であんたまでそんなことを言うのよ!!」と私を凄い目で睨みつけて泣き出した。(怖かった)母も限界だったのかもしれないけど私ももうこれ以上どうしていいか分からなかった。翌日普通に学校に行ったけど、頭痛が酷くて午前中で早退した。薬を飲んで眠気が来たのでベットに横になったとき「全部疲れた。このままもう目が覚めなくていい。」と思った。死にたいではなくただただ深く眠ってしまいたい。と思った。処方されていた強い薬を全部飲んだ。薬は父が管理していたが、探して飲んだ。一気に眠気が来てフラフラとベットに行き眠った。

目が覚めると大学病院のICUにいた。

先生が名前を呼びかけているのがぼんやり聞こえた。

父が家に帰ったら意識がなかったこと、救急車で搬送されたことを聞いた。このまま母は出て行った。(母と再会したのは大学4年生になってからで母の住所を教えて貰ったのは社会人になってからだった。)しばらく自分が家庭崩壊のスイッチを押してしまった絶望感でいっぱいだった。2度目の入院だった。

このとき高校2年生の終わり。主治医の先生に「浪人を視野に入れた方がいいかもしれないね。治療に集中しよう」と言われた。でもなぜか「絶対現役でいく」と思った。現役で建築学科に受かることが挑戦でもあり、希望だった。浪人=病気に負けると言う変な思い込みもあった。先生は呆れながらも長い付き合いで私の性格も理解してくれていたのかやれやれと言った表情で笑っていた。

治療をしながら受験勉強を続け、第一志望ではなかったけど無事に某大学の工学部建築学科に合格した。

これはその後予備校で出会った先生のおかげだと思う。先生は医大生だった。「物理と数学苦手だったの」と言いながらすごく分かりやすく教えてくれた。「苦手だったから苦手な人にどう教えたらいいか分かる」「間に合うよ一緒に頑張ろう」先生の言葉や経験に勇気をもらいながら、成績も伸びて行った。

大学に合格したとき、妹が「今までの分、大学は自分の学生生活を楽しんでね。」と書いた手紙をくれた。母が居なくなってから仕事人間だった父は1年間毎日お弁当を作ってくれた。インターネットでレシピを調べて印刷したコピー用紙の束が冷蔵庫にマグネットで貼ってあった。慣れない料理中何度も見返したのか汚れていてくしゃくしゃだった。お弁当は美味しくない日もあったけど、大事に食べた。

鬱病も大学入学までに薬を卒業し、治療を終えた。

高校2年生の頭で家族にとっての最善を考えて、大人になれと自分に言い聞かせながら提案した両親の離婚と母との別居は「Mizukiに追い出された」と母から恨まれる形になり、その時の心情は理解してもらえなかった。今もあの時の発言が正しかったのか分からない。もっと別の方法があったのかもしれない。両親の離婚や別居を進んで望む子供はいないし、私なりに勇気のいる、苦しい提案だったことだけは理解して欲しかった。

母が出て行ってしばらくしてから唯一家の事情を知っていた幼馴染のお母さんが「みっちゃんはよく逃げずに、グレずに、道をそれることなくちゃんと歩いてきたね。もっと私たちも踏み込んで守ってあげれば良かったと思っているんだ。」と言ってくれたのを覚えている。近所のジョナサンで大号泣だった。

両親は今現在も別居を続けているが、離婚はしていない。妹と私の為だと今だに言うけど、もはやどっちでもいいと妹と笑いながら話している。

中学2年生から高校3年生まで青春の殆どの時間を鬱病と過ごした。その時の写真は一枚も残していない。卒業アルバムも一度も開いていない。守りたかった家族は壊れて形を変えた。

その代わりに貴重な経験を得て、夢を繋いだ。



続く

▶️次回は・・・大学入学から就職までのお話


おまけ)

入院した病棟は様々な事情を抱えた沢山の大人がいた中で中学生の子供は私だけだった。社会人になった今でもあの病棟で見たこと、感じたことは忘れちゃいけないと強く思う。

そして、もしあの時の自分に言いたいことがあるとすれば

病気になった自分を責めなくていい。

そんなに焦らなくていい。

そんなに無理しなくていい。

逃げたっていい。

今は静かに立ち止まっていていい。

大丈夫じゃなくて大丈夫。

距離は長くてもトンネルの出口は必ずある。

と伝えたい。

同じ病気で苦しむ誰かにも。














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