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「福祉」という名前のつかないところで

4月にいまの職場で働き始めてから、12月でおよそ8ヶ月が経つ。この年末年始でまたひとの出入りがあり、席替えをすることになった。

右耳が聴こえない私は、入ったときからそれを周りの人たちに伝えていて、席に関してもずっと、島の「右端」ポジションを定位置にしてもらっていた。

どうなるかなあ。少しだけ不安に思って、席順を話し合う上司や先輩たちをパソコン越しにこっそり覗いてみる。ここはこのほうがいいんじゃないの、ここは隣のほうがいいのでは、の声に混じって、「あずささんは固定だからー…、」というのが聞こえた。その声には少しも押し付けがましさや苛立ちがなくて、ひたすらに淡々とした、配慮だった。

とても嬉しかった。

今までにも何度か席替えをしていたから、分かっていた。聴覚障害者だから、片耳難聴者だから、という理由ではなく、「あずささんだから」で席を決めてくれること。右端でいいんだよね、の確認すらない、「日常としての配慮」を淡々と行ってくれること。今までいた環境の中でいちばん、自分が右耳が聴こえないということを忘れて過ごすことができているかもしれなかった。

もちろん、どうしても特別扱いになってしまう後ろめたさや申し訳なさは心の奥にずっとあるけれど、「ごめんなさい」よりも「ありがとうございます」と言いたくなることが、なんとなく、いいなと思っている。

・・・

4月から、自ずと「福祉」を考えることが多くなった。

派遣社員として勤めているいまの仕事は、人事・労務分野のいわゆる「給与計算」と呼ばれるものだ。その言葉だけ聞くと、淡泊な印象を受けるかもしれないけれど、私にとっては考える余地が無数にある、とても興味深い仕事だ。お金の動きはひとの動き、給与を通して見えてくるのは、ひとの「働く」そのものよりもむしろ、ひとの「働く」以外の生活の部分だ。結婚で名前を変えながら、出産や育児をしながら、介護をしながら、障害を持ちながら、病を患いながら、家族を養いながら、引っ越しをしながら、みんな、働いている。同じ病気になったとしても、雇用形態によって給与を得られるひとと得られないひとがいることも、当たり前のように知った。採用になってもさまざまな理由で短期間で退職する非正規雇用のひとたちが予想以上に多くいることも目の当たりにした。ひとが「しごと」に就くということ、何らかの「はたらき」を生むということ、その見返りとして給与を得るということ。その給与を糧にして、日々を生きていくということ。それが当たり前にできるほうが実は稀で、このひとたちは何によって支えられるんだろう、と毎日のように思った。また、「しごと」が単にお金を得るための手段なだけでなく、社会の中に自分の居場所をつくること、ひとを認めて、ひとに認められるための手段であり価値であるのだということも、何となく感じた。

「働く」から一時的に外れたり、こぼれ落ちてしまうひとたちを受け止めるのは、ものすごく安易に考えれば「福祉」なのだろう、と思う。

「でも、もっと根本的なところで、」と思ってしまうのは、私のエゴかもしれない。夢を見すぎなのかもしれない。多くを求めすぎなのかもしれない。けど、思いを馳せずにはいられない。自分が「聴覚障害者」ではなくひとりの人間として、ひとよりも少しだけ欠けたまんまで、普通の中に溶け込めているということ。「福祉」という名前のつかないところで、最も「福祉」に近い営みが、日常として続いているということ。それを可能にしている何かの正体は何なのだろう、ということをずっと、考え続けている。

・・・

派遣だから、総務だから、女だから。自分自身、普通に楽しく働いているつもりでも、小さなとげが刺さって抜けないことが何度もあった。きっとこれからもそれは止まない。自分の「はたらく」、また、自分が扱うたくさんの「はたらく」を通して、働きながら生きていくことの意味を、価値を、その幅を、考えていたいし、その思考の足跡としてのちいさなことばを残していきたいな、と思う年の瀬である。

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