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私が白杖ガールだった頃

弱視の女子高生とヤンキーの恋愛を描いたドラマ「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール」。原作を読んで当事者として共感できる部分がたくさんあり、ドラマも楽しみにしていた。私の周りの視覚障害当事者や、当事者に関わる同僚や友人たちも注目している作品だ。

1話を見終わって、いつか書こうと貯めているスマホのメモに白杖について書いたものがあることを思い出した。1年以上前のメモで、自分でもこんなこと書いてたのかと思ったほどだ。ドラマを見て、改めて私が主人公と同じ高校生の頃、そして今白杖についてどんな気持ちを持っているか書き上げてみたくなった。

初めて白杖を持ったのは、小学校三年生の頃だ。

「これを持って外を歩く練習をしよう」

と言われたとき、どうして必要なのか分からなかった。家や学校の中など、慣れた場所では物の位置や空間を把握して、杖は使っていないからだ。持ち方、杖の振り方、階段や曲がり角の探し方を一つずつ教えてもらって、一人で知らない場所を歩く方法を身に着けていった。

スクールバスで登下校をしていた私は、高校生になった頃から電車で一人で通学するようになった。当時は白い杖を持った人に対して今では考えられないぐらい直接的な言葉が飛んできた。

「かわいそうやね」
「えらいね…。がんばってね。」
「立派!すごい立派!!」

すれ違いざまに、ホームで電車を待っているとき、これらの言葉が自分に向けられているものだと初めて気づいたときの気持ちは今でも忘れない。驚き、衝撃、怒り、くやしさ、悲しさ…。入り混じった感情を言葉に出来ず、グッと自分の中に押し込めることしかできなかった。押し込めた感情は周囲への不信感へと育っていった。みんなが私を何もできない存在として見ているような気持ちで通学していた。立ち止まっている人にぶつかったときにも、はっきり聞こえる舌打ちや

「どこ見てんねん!」

という言葉も怖さと共に残っている。

「見えへんねん!」

心の中で想い、時には口にしながら、伝えたいことはこんな言葉じゃないんだと思っていた。言葉にできない気持ちは白杖へと向かっていった。これを持っているから知らない人から怒られるんだ。これを持っているから憐みの言葉が飛んでくるんだ。白杖さえ持っていなければ私は普通になれる。そのとき思っていた「普通」とは、雑踏にまぎれて誰の注目も集めることなく歩きたいという想いだった。どこにでもいる1人の高校生として周囲に溶け込みたかった。白杖を持っていることで、視覚障碍者として見られることが嫌になっていた。

「こんなもの持ちたくない」

と思った私は、白杖を持つことをやめることにした。

ある日の下校時の事。地元の駅の階段を登り切ったところで右手に持っていた白杖を折りたたんでかばんにしまった。普通になりたい、これで普通になれるという想いと共に一歩二歩と足を前に踏み出す。

「死ぬな…」

数歩歩いたところで足を止めて白杖を取り出した。道の真ん中や駅のホームではなく、階段を登り切ったところでこうしていること自体、自分でも白杖がないと歩けないということは分かっていたんだと思う。私にはこれが必要なんだと思うきっかけがほしかった。誰に何を言われても「これが私なんです」と思える強さがほしかった。自分にそのきっかけを与えたかった。

そこから10年ほど経って、私は母親になった。娘をおんぶして歩きながら、手を繋いで歩きながら

「えらいわねぇ」
「がんばってねぇ」

私にだけ向けられていた声が娘にも向くようになった。それでも、私はもう白杖を捨てたいとは思わなくなっていた。

高校生の頃から母親になるまでの約10年の間で、たくさんの人が「白杖を持った私」を受け入れてくれた。大学時代の友達はもちろん、社会人になって出会った友達、お店の店員さんや駅員さん。そして、名前も知らない街中で声をかけてくれた数えきれない人たち。

「お手伝いしましょうか?」
「信号青ですよ」

一瞬のやり取りの中で
「ありがとうございます」

と返しながら、たくさんの人たちの優しさに触れてきた。白杖を持って一人であちこち出かけたことで「これが私なんです」という自信はたくさんの人たちがもたらしてくれた。

直接やり取りを交わした人だけではない。私が歩いていることに気づいてそっと見守ってくれている人たちがいることを知った。

「ママが通るって分かって道譲ってくれたんだよ」

と教えてくれた娘。
ペラペラしゃべりながら、会釈をした友人。持たせてもらっていた腕の動きから軽く頭を下げたことが伝わってきた。どうしたのかと尋ねる私に、道を譲ってくれた人がいたことを教えてくれた。

私が知らないところでたくさんの人たちが見守りの目を向けてくれているのだと知った。全盲である私にとって、白杖を持つことは靴を履くことと同じだ。外に出るには必ず必要になる。周囲からの言葉や態度で持つことが嫌になっていた白杖。でも、これを持っていることが私なんだと思えたのもまた、周囲からの言葉や多くの人が手渡してくれた暖かい気持ちがあったからだ。

私は今、人生の途中で見えなくなった人、見えにくくなっている人と関わる仕事をしている。白杖を持つことで視覚障害者だと思われたくない、周りからどう見られているか気になる気持ちは、かつての私がそうであったようによく分かる。それでも、白杖を持って一歩踏み出すことで、受け取れる優しさや温かさがあることを、一人でも多くの人が知ってくれたら嬉しい。

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