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むかしむかしの、天才たちのお話①〜ごあいさつ〜

結局のところ「美しい」とはなんなのか、考えたことはあるだろうか。


少しだけ私と一緒に思い起こしてみよう。美しい、綺麗だと感じるものを3つ挙げて欲しい。ぱっと思いつくもので構わない。おもいうかびましたか。
じゃあ次はその3つの特徴を探ってみよう。何色だろうか、質感は、他の人からの評価は、みんなが知ってることなのか、自分だけのものなのか、そもそも目に見えるのか、空想のものなのか、人の手によるものなのか……。
3つともに共通することが、あなたの「美しさ」の要素なんだろう。

まず初めにわたしが言いたいことは、何かを見て美しいと感じる心情に、間違いはないということだ。その心の揺れはあなただけのものだ、誰にも邪魔させない。


話は変わるが、美術館に行ったことはあるだろうか。私は好んでよく行くのだけれど。あの静かな空間に並んでる数々の作品を見て「綺麗だ」と思うだろうか。そう思える作品もあれば、なにが描いてあるのかわからないものもある。人によって感想が異なる作品たちは、何故あそこに「綺麗なもの」として並べられているのか。おかしくないか、何が描いてあるかわからないはずなのに。そんなものをわざわざ「見せる」必要があるのか。

この話をすると「美しい、綺麗」以外の価値がその作品にはある、と言われることがある。そんな反論、私にしてみればナンセンスだ。自称美術通の鼻っ面をへし折ってやるまでは私は呼吸を止められない。そもそもそれ以外の価値があるならその価値が最大限発揮されるために「見せる」必要は無い。もっと他の魅せ方があるはずだ。美術館に勤めておられる学芸員の皆様は、プロだ。舐めてはいけない。
あそこに並べられた以上、「美術館に飾られる」程美しいものである、という価値の強要が発生している。つまり、私たちに「これは美しいんだ」と叩きつけているわけだ。ここで1つ、逃げかもしれないが留保をさせて欲しい。いわゆる「現代美術」は美しいとは別の価値観を押し付けてきている。そもそも「価値」とはなんたるかを問うにあたって作品という形をしているだけなのだ。だから、あれは美術館に飾られることを前提として制作されていることも多い。
私がこれからお話する美術作品とは、もともとは美術館に飾られるはずではなかったのに、今は美しさという価値の強要の一手段となっているものである。有り体に言えば、昔の作品だ。


ここまで読んで、なんの事やらと思った人、多分あなたの考えは正しい。所詮はなんの特技もない社会人の妄言だ。
でも、もしも、「じゃあ結局美しいってなんだ、何が美しいとされてきたんだ」と疑問を持てたなら、疑問を持つことがおかしいと思わないならば、これから私と造形芸術の旅に出よう。


美術とは「美しい」ものである。ここには論も証拠もないけれど、私を信じて欲しい。必ずや愉しくて感動して、そして生き様を垣間見ることが出来る。


お家にいたって、電車に乗ってたって、歩いていたって、この小さな通称スマートフォンと呼ばれる箱さえあれば、どんな昔だって、どんな遠くにだって出かけられる。どうかそれぞれの時代のいろんな場所の作家たちが何を目指して、どんな美しさを作品に吹きかけて、それを、今の私たちはどんな目で見ているのか、少しでも味わってもらえたら幸せだ。


これから私が紡ぐ言葉は、誰かを説得するためでも新しい発見の正しさを主張するわけでもない。だって、論文じゃないから。私事だけど、以前論文を執筆していた時は事実しか書けなかった。そりゃそうだ。それはそれで楽しいけれどやっぱり私は。
だから、今回は嘘は書かないにしてもちょっとでも楽しいと、美しいと、なによりもすごいと思ってもらえるように私があの天才たちの何処に心を揺らされたのかをお話出来ればと思う。

あなたの人生に少しだけでも、芸術の息吹が吹き抜けますように。

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