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在る40時間と花(1日目)

会社の自動ドアをくぐって悩みの種である緑のアプリをタップする。彼女のことを考えるとどうしても夏を思い出してしまう。頬をなでる風が冷たくなってきた頃、私たちはどちらからともなく会うことにした。
最寄り駅に降り立つと、すこし花の香りがした。へぇ、香水変えたんだ、私のせい?彼女は楽しそうな顔で笑う。そんなわけないけど、うんと頷く。彼女は大手会社の総合職、エリートだ。大学の同期で友達で、そして去年の夏から歪な関係だ。零れた心を掬ったのは私のはずなのに、結局救われているのは私のほうかもしれない。彼氏がいないと聞いていたから今のうちはいいかという、浅瀬で楽しむような、そんな関係だ。

金曜日、時刻は18時と20分、合流した私たちはスーパーへと向かう。今日は和食の気分なんだけど、どうと彼女が言う。首肯を返してかごに食材を詰めていく。私の手によってこのこたちには美味しくなってもらおう。お会計は、私で。雰囲気で決まった暗黙のルールで、家に呼んだほうが支払うことにしている。帰り道、私が重い袋を、彼女が軽い袋を持って手を繋いで歩く。別に付き合っているわけではないけれど、彼女とはこの甘めの距離感が心地よい。私の鞄から鍵を取り出すと、オートロックのドアを開けて我が家のように6階へと進んでいく。自分の家かよとツッコミを入れつつ私も後に続く。自室のドアをくぐると彼女がくるっと振り返って「おかえりなさい、今日もおつかれさまでした。」とはにかみながら言う。恥ずかしいならやらなきゃいいのになんて、照れ隠しでつぶやきながらただいまを口にする。そういえば「ただいま」なんて言ったのはいつぶりだろうか。当たり前だったものが当たり前ではなくなって、そのことにすら気が付けないのは仕事が忙しいからだろうか。こういうのを所謂大人というのか。考え込んでしまいそうな頭を振り切って、夕飯作りにとりかかる。

今日のメニューは炊き込みご飯とぶりの照り焼き、お味噌汁にきゅうりの浅漬けだ。料理している間、彼女は部屋を物色する。私が他の人からもらったものを目ざとく見つけてはからかってくる。彼女の中で、私はどういう位置にいるんだろうか。炊飯器をセットしてリビングへ戻る。ベッドで手招きしている彼女に近づくと、そのまま甘い匂いに包まれる。ワイシャツをくしゅっと掴むと私の首筋に顔をうずめる。こうするのも久しぶりだからとさらさらの髪を指で遊び、つむじあたりに唇を落とす。そのままの流れで彼女は足をからめて、ボタンをはずそうとする。私はそれをやわらかく手で止めると、ご飯終わってからねと諭す。物足りなそうな顔をした彼女を見ていると心が揺らぐけれど、それはそれ。
気持ちを切り替えて夕食の準備を続ける。とことことキッチンにやってきて手伝ってくれる彼女を愛おしく思ってしまう。
テレビでぼんやりとニュースを見ながら二人でご飯をたべる。私の実家は味付けが濃いほうだけど、彼女に合わせて少し薄めにしてある。それを知ってか知らずか、彼女は迷い無く箸を動かしていく。自分のつくった食事を美味しそうに食べてもらうことよりも幸せなことがこの世に存在するのだろうか。仕事の話や好きなアニメの話、最近行った場所の話、そして明日の飲み会の話をする。私たち2人とも参加予定だけれど、メンバーの中で私たちの関係を知っている人は誰もいない。一緒に行くと変だから時間ずらしていこっかなんて、2人だけの秘密はどきどきする。

そうこうしているうちに夜の9時、お風呂はいっといでよと声をかけ、私はコンビニへアイスを買いに行く。帰ってくると横になってスマホをいじる彼女。くつろぎすぎて、誰の家かわからなくなる。私もさっとお風呂に入るとベッドへ倒れ込む。電気、消してよと彼女は可愛いことを言う。今だけは、私は彼女のものだし彼女は私のものだ。馬鹿だな、彼女は私の香水をほんのちょっとだけ振ったらしい。
夜に溶けて、煙草は吸わずに、心地よい倦怠感の中で微睡む。キスマークなんて付けても付けなくても私は誰のものでもないのにねなんて言うと、彼女は寂しそうな顔をする。途切れそうな意識の中で、好きだよって言葉だけが空に浮かんで消えた。

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