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散歩という生き方

自分の家のまわりに何があるか説明できますか。

私の家の周りには、夏の深夜に月とサボテンが重なって綺麗に見える場所や、ぽつんと1本だけ生えた背の低い桜の木や、マンションの隙間のある角度からだけ満点の星空が見える大通りがある。意外と、自分の家の周りがどんな所か知らないものだ。あなたは散歩をするだろうか。大学時代の恩師からもらった言葉を、私は忘れられない。

「君は散歩が上手だ、うまくいく、安心しなさい。」

教授の部屋から出た私は、卒論なんてそっちのけで上手な散歩とは何かを考えていた。教授は続けてこう言ったのだ。

「研究とは散歩だ、思いもしない時、思いもしないところで発見がある。そういうやり方を僕はずっとしてきた。君は研究者になればいいのに。」

ただの社会人になりさがって、楽器を弾き、駄文を連ねる生活をしている今の私は、教授に合わせる顔がない。

今回は散歩の魅力についてお話したいと思う。毎日がつらくてつらくて、自分で自分のことを認めてあげられない人がいるなら、どうか世界を愛せますようにと願ってやまない。救済は死なんて仰々しいものじゃなくて、駅のホームやたんぽぽの裏側、歩道の隅、自販機のボタンに隠れてる。見方ひとつでたくさんのものを視ることができる。小さな世界には大きなことが、大きな世界には小さなことが隠れてる。

たまたま手に取った本が自分に響いたり、タイムラインに流れてくる言葉がたまたま自分に刺さったり、シャッフルで聴いていた曲がちょうど雰囲気にあっていたり。偶然とは必然である。誰もコントロールできないし、所詮は結果論だ。この「偶然」こそが散歩である。何かを探している訳では無いけれど、気がつけば答を手にしている。

私は高校生の時、学校まで2時間かけて通っていた。寒い中早起きし、星が見える時間に家を出て、電車を三本乗り継いで通っていた。少し自慢だけれど、中高6年間は皆勤賞だ。運動系の部活と軽音部を兼部していた私は、大会前は朝練、ライブ前は深夜練と朝が早くて夜が遅い生活を送っていた。だから、歩くことが多かった。自転車ほど早くはないけれど、その分景色をゆっくり見る事が出来る。世界は案外鮮やかなものだ。散歩をするというのは、単に歩くだけじゃない。風を、匂いを、季節を感じながらたくさんのことをかんがえてほしい。

人生の選択をする時、たとえば受験とか好きな人に告白するだとか就職先を決めるとか、そういう場面で私は常に散歩をしてきた。広い公園を歩いたり、いつも乗ってる電車の逆方面とか、家の近くの川沿いを歩いたり。息を大きく吸って、音楽を聴ききながら景色を見る。車のテールランプも人の話し声も、全部が心地よい。

大学に入ってからは500円だけ持って、コンビニでお酒を買いながら外を歩いた。春には桜を見に行って、夏には静かな場所で月を見て、秋には夕焼けを川で見て、冬にはおでんを頬張りながら寒空と戯れた。なにかを目的にすればそれは散歩ではなくなる。あくまでふらっと歩くのが良い。長くなくてもいい、15分でいいから、3日に1度でもいいから、会社や学校の帰りでもいいから、自分の心のための時間を取ってみてはどうだろう。そんなに難しいことじゃなくて、誰でもできることだ。なにかに悩んだら、考える前にまずは足を外に向けて歩いてみてはどうだろうか。それから悩んでも遅くないはずだ。

どうか、身体で世界を感じる人が増えますように。

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