世界は宗教で動いている(橋爪大三郎 光文社新書)を読んで

①聖書は古くて時代遅れで間違っている。科学は新しくて進歩的で合理的で正しいと、日本人の多くが考えています。欧米でも今や聖書を文字通り正しいと考える人々は少数です。P114-115

①感想→現代はなぜ宗教が過小評価されてしまったのか、裏を返せば、なぜ昔は宗教が成立したか、宗教が誕生したのか、ということ。もともと宗教は、自分とはなんなのか、人は必ず死ぬのになぜ生まれてくるのか、特に昔は生きていくのが精一杯だっただろうから、なぜこれほどまで大変で苦しい思いまでして生きていかねばならないのか、という問いに対して生まれてきたのではないだろうか。それが、現代は、戦争などが残るものの、豊かで快適な生活ができるようになり、前述のような問いを考えることが少なくなった結果、宗教が不要になってしまったように思う。死が怖いから宗教ができたわけではないと思う。自分はなんなのか、なぜこの世に生を授かったのかという哲学を問い続けた結果、宗教が誕生したのではないか。その中で、生と連続した死のことについて、考えるようになったのも必然であろう。現在のように、いくら豊かで快適になったからといって、哲学や宗教的な問いが解決されるわけではない。死についても同じで、いくら経済的、科学的に豊かになろうが死を克服することはできないだろう、それをまず理解すべき。不老不死など無理だろう。人は必ず死ぬのになぜ生まれてくるのか、という根本が変わったわけではない。生きていくのにあまり支障がない、生きていくのが大変とか苦労しなくなった(一部では仕事などで辛い、苦しいという人はいて、自殺もあるが)ために、哲学や宗教的な問いが見えにくくなっているだけではないか。どんな時代であっても根本的な問いは常に問い続けていかねばならないような気がする。なぜかといえば、生きていくのが辛いと思っている人の一つの救済手段になるだろうし、一番は、なぜ生きるのかと考えることは生と連続している死についても考えざるを得なくなるだろうから。どんなに進歩しようとも、死は必ず訪れる。それが人であり、生物の定義ではないか。生と死は一体であり、引き離すことは無理だろう。死があるからこそ、”生き物”と書くのではないか。死がなければ生きるという言葉さえ失われてしまいそう。なぜ生きるのかという哲学的、宗教的問いを常に考えながら、同時に死についても当たり前のように考える、というのが健全な姿ではないだろうか。経済的に豊かになっていくにつれて、人の心はどうなってしまうのか、といっていた聖路加国際病院の日野原先生は、こういったことも一つの懸念事項と考えていたのではないだろうか。

②まず理解すべきなのは、もともと科学は、宗教的な動機で始まったということです。この世は神が作った。この世界を作った神は世界の外に出て行ったが、神の意志通りに世界はその後も毎日動いている。天体は規則通りに回転している。生物は設計通りに繁殖している。神の許可なしに動いている自然現象は一つもありません。この世界は神の作品である。この世界がどう作られているか理解すれば、神の計画が明らかになり、神の意志に人間はより忠実に従うことができるのではないか。神の作ったこの世界自然を聖書のようなもう一冊の書物として読解しようというのが、自然科学がスタートした理由でした。
科学はこの意味で人間の業です。しかしその内容は神に属するのです。神は全知全能であるから、この自然がどう作られているかという秘密を全て知っています。人間が知ることができるのは、そのごく一部に過ぎない。科学者の活動は、神の知に近づこうとする行為であり、神の計画を明らかにしようという行為なのですが、人間がやることですから常に不完全なのです。P115

②感想→まずこれをみんなが理解していないと、医学医療はもちろん、科学は全てうまくいかないだろう。

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