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様式美のある慣例の価値と、形骸化した慣例の無価値

新内閣も発足し、あらゆる改革が進められておりますが、大抵こういうネタは、よくTwitterで盛り上がってます。

深夜に新しい副大臣を迎えるような「慣例」を、意味がないからやめた方がいいんじゃないか? みたいな、真っ当な意見がTwitter上では飛び交う。

全くその通りだ。

で、今日はちょっと違った視点でこの辺りのことを考えてみたいと思います。


古くから続いている慣例には、いろいろなものがありますが、

・なんとなく続いているもの
・意味があって続けているもの

の2パターンがあると思っています。

わかりやすい例で言うと、印鑑の文化はまさにそうですね。署名(サイン)で十分に機能としては満たすのに、いまだに何をやるにしても「印鑑が必要」としている会社や官公庁は多い現状です。

印鑑は、意思表明と本人確認の2つの機能的側面があって、この機能でいえば、署名で十分事足りてしまう。

でも、今までと違う仕組みを入れたり、慣例を変えることの手間を誰もかけないから、形骸化した慣例が残るわけですね。

で、今日は後者の「意味があって続けているもの」を考えたいなと。

ちなみに、役に立つ(機能)と意味があるの2つの違いについては、山口周さんのこの記事がめちゃくちゃわかりやすいので、ぜひ読んでみてください。


先日、初めて不動産購入をしまして、売主さん、行政書士さん、不動産屋さんの立ち合いのもと、契約手続きを行いました。

ぶっちゃけ最初は、「そんな時間かけないでさらっとやっちゃえばいいのに」くらいのことは思っていたのですが、実はこの契約の時間がとても有意義なものになりまして。

売主さんと会話をしながら、その別荘をどのような経緯で建てたか、普段どんな使い方をしてたか、別荘に泊まって秩父を観光していた思い出などを聞いて、僕自身その建物に対する思いがとても醸成されたんですね。

売主さんの想い聴きながら進める契約は、なんかとてもあたたかいものがありました。

多分20箇所以上あったのかな、印鑑押すところ。

機能面でいれば「マジでめんどくさい」なんですが、この印鑑を静かに押す所作や空気感、そこには売主さんがこの物件に関する様々な思い出を思い浮かべながら、「トンッ」と印鑑を1つずつ丁寧に押していく。

意味面で言えば、売主さんの思い出に寄り添える、とてもとても素敵な時間でした。これはネットでの契約や、非対面のさらっと進める契約では感じられない、印鑑の様式美の時間だと思いました。


印鑑そのものには、長年の文化があるし独特の様式美がある。その「意味」の側面を大事にして、様式美を味わう・楽しむことしてのみ、印鑑は残っていけばいいと思います。


機能的には、大きな意味合いはなくても、意味的には素晴らしい様式美があるものの1つに「祭り」もありますよね。

たくさんの大人が集まって、神輿を担いで終わるという1日。そこでは何も生産はされていませんが、集まる人のコミュニティや思い出が醸成されると言う“意味”があります。


古くから続くものは、この様式美や意味をしっかりと感じ取って、残す方が合理的なものは残していくのがいいんじゃないかなって思いました

なんとなく「今までそうだったから」「前年通り」といった、思考停止の慣例主義だけは、腐っちまえって思いますけどね。

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