マガジンのカバー画像

うたがわきしみうわごとだものⅡ

366
感じたことあれこれ。日常。コラム。創作日誌。エッセー的な。作品にはならないうわごと系の。二個め。文芸を志す方にオヌヌメ。
運営しているクリエイター

#エッセー

これはもう不思議なくらい必ずそうなり 一種のジンクスのようなのだが ふいに現れ熱烈に僕のあらゆる作品を高評価し 貪るようにフォローしまくり 隙あらばDMでも応援アピールしてくる 火の呼吸のファンはほんの短い期間燃え盛った後 全く音沙汰がなくなり飛ぶ 病的に熱しやすく冷め易い見本

【エッセー】待つ力

現代人から“待つ力”が失われている 加速しかしてこなかった時代と ゼロ距離ネットワークに 感染し過ぎてしまったのだ 人類が それに急いで適応せねばならなかったとはいえ 語弊を恐れずに言えば コロナよりひどいものに みな罹患してしまっている なればこそ 「今ひとたびのスローライフ」などという 手垢言葉では言い尽くせぬ “待つこと” “待てること”の 尋常ではない心のスケールを 取り戻さねばならないのではなかろうか 海外のとある地域では バスや電車が二、三時間遅れても当た

【エッセイ】一番乗りを愛する理由

や、だってそうじゃん 一番乗りして、「スキ」とか「イイね!」してくれる人が 一番偉いし、愛するに決まってるじゃん これは僕がたびたび話してることだから みんなもう耳タコでわかってると思うけど 人間の脳みそはとても面倒くさがりなのだよ 人間は、1日に消費するエネルギーの20%を脳で使ってる 成人の脳の重量はおよそ1.2~1.5㎏ぐらいで 体重の2%ほどに過ぎないらしんだけど なのに1日の消費カロリーのうち 1/5とか1/4とかを脳だけで消費しちゃってるんだぜ!? 考えてみ

『寂しさの正体』

“寂しさ”かあ。 まあ、人それぞれ自分だけの寂しさレンズを持ってるだろうし、 レンズによっちゃ、なんでもかんでも寂しく見えちまうだろうが……w そうさな、乱暴にくくっちまっていいなら、 寂しさには二種類あるんじゃねえかな。 1つは、タチの悪い友人みたいなヤツで、 普段なにげなく過ごしてるときにはとんと顔を見せない。 そのくせ――たとえば学校帰りだ。 公園で友達と暗くなるまで遊んでいたとする。 「○○ちゃん、もうお夕飯だから帰るわよー」 「はーい! 今日のごはんは何かなあ?

フォロワー数と詩人の実力は 比例していると君は言うんだね? なるほど 確かに目安にはなるのかも… そしてある一面ではきっと真実なんでしょうね けれど果たしてそんな単純な物差しだけで 測っていいものかしら 無名なれども凛と咲く一輪の華を あなたが見落とさないことを祈っているわ

自分の身体性しか信じておらんのだな だがそれでいい 自分の身体性すら信じ得ぬ者が 他人の身体性を見出だせる訳がない やがて人の中にも同じく海があり 寄せては返す波の如く命の呼吸があると知る 生死生死を繰り返す永遠の潮騒を さあ行け 赴くままに それでも宇宙は続く 我が内に 外に

「失禁」という言葉を考えた蘭方医の詩的センスに脱帽する。蘭語の「漏れる」を和訳する際編み出したらしいが、本来禁じられたものがその歯止めを失い、とどめそこなう。やむにやまれぬ膨大な物語がたった二文字にすっかり収まっている。小説家はこの二文字から話を展開させるが詩人は二文字に収める。

『トイレでわしも考えた』

もしnoteで詩人として売れたかったら きちんと企業努力をして 惜しみ無く気を使って ニーズにこたえたりしていかないと いけないのだろうね や、無理、というか そもそも二足、三足のわらじをはいて生きてるから はなから(noteに対する) ハングリー精神が欠落しとるのよね うたがわきしみは (や、わしだってnoteに対して うすらぼんやり期待していた時期もあったはず だがしかしお金大事超大事、本職は遊びじゃない) だから気まぐれに わがままに 人気があろうとなかろうと 傍

物事には必ず何がしかの両面が生み出されている つまりいい面と悪い面が存在する 例えば飽きるという現象 一見悪いことのように捉えがちだが 飽きるからこそ一つのことに拘らず どんどん視野を広げられるという利点がある 逆に飽きなければ それは一つの物事をどんどん深められるという事である

『尻はきしみを救う』

自分の仕事は夢を売る仕事みたいなところがあって、まあファンタジーの世界を構築して人々を楽しませるいわゆる娯楽を提供しているわけだけども。 昔、現実でつらいことが起きたりしたとき、こんな毒にも薬にもならん非現実的な話ばっか作って、いったい俺なにしてんだろ、みたいな虚無感に襲われた時期があった。 けど今は違う。どちゃくそどうしようもないときこそ、こういう別世界に連れて行ってくれる娯楽がどれだけ救いになるか、知ってる。 だから、今日も、バカやろうぜ? TLのきしみIN率が下

『noteで良かったか? ~note存在論的実存主義で嘔吐するサルトルも斯く語りきサモハン・キンポー主演黒船来航ちょんまげピストル滞在攻防記:「誰が寿司はマグロからと決めたのか?」ソシュール言語学概論第四章より抜粋の極みガイアの朝焼けアーネスト・サトウは家政婦なみに垣間見た情熱ホルモン大陸間弾道少女けだし夕刊マダムはレトロスペクティブより~』

noteで良かったことを語る前に、あの吉田さんのコメントスレ―― 果たして本当にnoteは「良かった」のかどうか 「良かった」と断定するからには、光と影が切り離せぬように 「悪かった」という評価が当然背中合わせに存在しなければならない。 だが、noteというこの曖昧模糊とした世界を 実際問題、良いか悪いかの狭量な二元論で片づけてしまっていいのか、 まず僕らはそこに立ち返って考えてみる必要があるのではないか。 なぜかなら、かつての最先端物理学の検証結果を遡るまでもなく、

『研ナオコは言い訳させてくれない』

日本で一番歌がうまいのは玉置浩二と言っても誰も否定しないし、できないと思うんだけども。 若いころは、ガツンと高いサビが歌えたりすることが“歌のうまさ”だと勘違いしていたと思うし、男性ではそういう人が多かったと思う。 でもある程度大人になってくると、それがいかに表面的であさはかな思い違いであるかがわかってくる。 本当にうまい人は、サビはもちろん最高にうまいし、パワフルに歌いきれる歌唱力もあるんだけど。Aメロ。出だし。声を張らないパートと言い換えてもいいけれど、そこの情報量

『無駄じゃない無駄』

『雑感抄』でも書いたけど、無駄に見えることってのも案外大事で、逆にいえば無駄なことなんてないかもしれなくて。 前の『雑感抄』は消しちゃったので、コメント残ってないですが、そこにあれを書いた背景というかノウガキをたれていたのを少しだけ、メモとして残しておきましょうかね。 御存じない方がほとんどだと思うんですが、僕は舞台や声優やってたりしてて、まあ、演劇の道にいたんですけど、そこで教わってきたこととして、というか、僕はそういう世界だと思ったから飛び込んだわけで、声優とか芝居に

『今を生きるための現代詩のススメ』

や、なにがなにって、江藤さんが僕がやり無理薦めた渡邉十絲子著『今を生きるための現代詩』のインプット完了したようです! 偉いなあ。あのう現代詩ってほんとよくわからないですよ。書いてる僕がいうのもなんですが(笑)ぼくもなんだかんだいって、いい歳の大人になってからなんですよ、よくわからない詩の世界に踏み入ったのは(笑) なんだろ、わかりやすいものばかり書いたり食べたりしてると、脳がなんか求め始めちゃうのかな(笑)はごたえを(^_^;) でも、最初はとっつきにくくて何度も挫折し