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大久保利通らし寿司

木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の三人、維新三傑と呼ばれます。
武士の時代を終わらせ、明治維新に大きく貢献した三人ということ。この中でもっとも長く生きたのは大久保利通ですが、同郷である西郷に比べると、人気が低い。西郷が主に戦で活躍した、華々しいイメージがあるのに対して、大久保は官吏的な仕事をこなしていたことから、何となく暗い策謀家のようなイメージを持たれている気がします。
素顔の大久保利通は子煩悩で酒好き。宴会の席では畳を回すという宴会芸をやっていたとか。
薩摩の祝いや宴でよく供されていた料理が、さつもすもじと呼ばれるちらし寿司。大久保はこれが好きだったとか。
私自身も最近、少しうれしいことがあったので、目出度い料理を食べたい気分だったので、ちらし寿司を作ることに。

蓮根、人参、さつま揚げ、海老、鮪と自分好みの物を集める。ここには写っていないけれど、卵二個に砂糖小匙1を混ぜ合わせた錦糸卵も焼きました。

薩摩出身の大久保へのリスペクトを込めるということでさつま揚げですが、このさつま揚げは特別。
普通にスーパー等で販売されているさつま揚げには、ソルビトールや着色料等が使われていることが多いのですが、私がよく行くスーパーは体に良い物だけを売るというコンセプトを掲げているので、このさつま揚げにも添加物や化学調味料は使われていません。
魚介の具ですが、ぶつ切りの鮪。現代では鮪は高級魚扱いですが、江戸時代には低級な扱い。漢字は同じですが、当時の読み方はマグロではなくシビ。
シビとは死日に繋がる。縁起が悪いとして、特に武士には嫌われていたとか。
武士の時代に死日を齎したということから、鮪を使う。(こじつけです)
海老は腰が曲がっていることから、長寿の象徴、つまり死に対して生を。
ごたくはこれ位にして、調理開始。

二合の米を研いで、出汁取り用の昆布を載せて30分程浸水。
握り寿司のシャリを炊く場合は米にあまり水を吸わせない方がいいのですが、これから作るのはちらし寿司。よって普通に浸水させてから炊きます。
米が炊き上がるのを待つ間に具材の用意。

蓮根は酢水に10分漬けてから、酢を入れた水で茹でる。変色防止のためです。これまでの料理でも何度か書いてます。

その後、酢を入れた水で茹でた後、甘酢に漬ける。
酢 カップ 1/4
砂糖 大匙 1
塩  小匙 1

砂糖は上白糖ではなく、黒っぽいきび砂糖を使用。このまま使うまで漬けておく。

さつま揚げは二切れを袋から出し、酒少々を振りかけて、魚焼きグリルで焦げ目が付くまで両面を焼き、1センチ巾位に切っておく。

人参は拍子木形に切り、水から茹で、沸騰してから3分程茹でて柔らかくする。

すし酢も用意。
配合は
酢 50ml
砂糖 大匙 1・5
塩  小匙 1

薩摩をイメージして、酢はこれを使用。

薩摩といえば黒酢。(実はこれは鹿児島産ではないけれど、イメージということで)

ご飯が炊き上がると、10分蒸らしてから寿司桶に広げる。

白いご飯

これにすし酢を混ぜていくと、

色が変わっていく。

黒酢を使っているから、そうなりますね。
青雲の志を抱いていた真っ白な大久保が権謀術数に揉まれていき、黒く染まっていく?
明治維新とは、日本に内戦を起こさせたかった外国勢力が薩長の下級武士達を焚きつけたのが原因で起こった革命という見方も出来ます。そうした黒い陰謀に巻き込まれていく、どうやら妄想が過ぎたようです。

握り寿司のシャリならば、酢を混ぜた後は濡れ布巾を被せて、冷ましていくのですが、これはちらし寿司。温かい内に具材を混ぜていきます。

あったかご飯に混ぜるだけ、永谷園のすし太郎のCMと同じです。
人参とさつま揚げを半量、混ぜていく。
皿に盛ったら、蓮根、残りのさつま揚げ、錦糸卵、魚介をトッピング。

黒ちらし

海老に含まれているキチンキトサン、脂肪やコレストロールを吸着して、体外に排出する機能あり。
昔、体重過多になった時、キトサンのサプリを使用していたことがありました。今はサプリに頼らず、自然な食材を自分で料理することで健康や体形維持に努めています。
黒酢には必須アミノ酸。人参のβカロテンや蓮根の食物繊維等々、栄養もばっちり。
ご飯に染み込む黒酢独特の風味、甘酢漬け蓮根のシャキシャキ感、海老のプリプリと味も文句なし。
ただ、鮪は今回、刺身のままで乗せて、それだけを醤油に漬けながら食べましたが、最初からズケにしていても良かったかもしれません。どうせご飯は黒酢で染まっているのだから、醤油の色が少し付いた所で変わらないし、面倒がなかったかも。次回への課題としよう。

ちらし寿司を好んだ大久保利通、維新三傑の中でもっとも長く生きたと冒頭に書きましたが、決して長寿だったということではありません。
西郷が起こした西南戦争の翌年、明治十一年(1878)五月十四日の朝、紀尾井坂を馬車が走る。この辺りは江戸時代には紀州徳川家、尾張徳川家、そして井伊家という大大名の屋敷があった所。三つの家の頭文字から、その名前。
赤坂仮皇居に向かう大久保が乗っていた馬車、石川県出身の士族六名により襲撃を受けます。
馬車から引きずり出された大久保、散々に斬り付けられて死亡。享年47歳。
襲撃した者達、大久保達が成した維新により武士という階級がなくなり、士族が困窮していることを恨みに思っていました。又、大久保が政治を壟断、私腹を肥やしていると考えた末の犯行。

私は薩長の下級武士達が起こした明治維新というものが本当に必要なことだったのか懐疑的です。その結果、日本が近代化したという見方も出来るでしょうが、幕府主導でも近代化は可能だったのではないか。幕府にも有能な人材はいました。たとえば、こんな人。

フリーメイソンを代表とする国家を超えるような勢力、いわばD.S.等に焚きつけられた下級武士達が天皇を旗頭に戴いて起こした革命。それにより日本が内乱状態になり、国土や国力が疲弊した頃合いを見計らい、介入して植民地に。外国勢力が考えていたのは、そんなことでしょう。大久保もその策謀に乗せられていたかもしれません。
しかし日本人の賢い所は、相手を完全に叩きのめすまではやらないし、勝負がついたらいつまでも引きずらない。
そうした寛容の精神があったからこそ、戊辰戦争も長引くことなく終結。

武士の時代が終わったことにより、士族は名字帯刀という特権や家禄というものを失い、困窮。まさに死日を迎えていたのですが、大久保はそれをそのままにしておくつもりはありませんでした。紀尾井坂で遭難した日、出仕前に大久保は士族への授産事業の打ち合わせをしてから馬車に。
特権を失った武士達に仕事を与えて、新たな生きる道を与えようとしていたのです。
正に襲撃した者達にとっては皮肉。更に大久保の死後、財産と呼べる物は何も残されていませんでした。つまり私腹を肥やすどころか私財を投げ打って、国政に当たっていたのです。

大久保利通、決して腹黒い策謀家ではなかったと思いたい。

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