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カポナー田沼意次

夏野菜をふんだんに使った料理にカポナータとラタトゥイユがある。
参考。↓


どう違うのかと調べたら、酸味ある味付けの方がカポナータ?
ということでカポナータを料理しながら、負のイメージで語られることが多い政治家を妄想した記録。


材料

トマト   2個
ピーマン  2個
茄子    2個
ズッキーニ 半分 (UFOみたいな白い物体)
玉葱    1/4
大蒜    1欠け
塩     小匙1
白ワイン  100cc
酢     50cc
蜂蜜    小匙1
オリーブ油 大匙2

徳川宗家に将軍後継者が絶えたために紀州徳川家から八代将軍として迎えられた徳川吉宗は、紀州から多くの家臣を引き連れて江戸城入り。
その一人が田沼意行。家禄は六百石。その長男として誕生した龍助が後の田沼意次。
家督相続後、意次となり、九代将軍家重の小姓として出仕。
見栄えもよく利発だったようで、その後も昇進を重ねる。


トマトと玉葱を四角に切る。

家重生存中に身代は一万石に。つまり大名になった。
家重の跡を継いだ十代将軍家治の頃には五万七千石の相良城主となり、老中へ。つまり実質的に幕府の政治を主導。
江戸幕府という政体は農本主義。米を年貢として取り立てて、それを武士の給与として支払い、様々な事業の原資にすることで成り立っていたが、江戸時代が進むにつれて、貨幣経済が発展して経済実情に合わなくなってきた。
八代将軍吉宗は倹約を奨励、米の増産や管理を行う享保の改革。
しかし田沼意次はまったく違った方法で幕政改革。


ズッキーニとピーマンを食べやすい大きさに切る。

それまでの重農主義から重商主義への転換を図った。
商人が同業者で作る株仲間を奨励。
株仲間に特権を与える代わりに冥加金という税を納めさせた。
株仲間を認めてもらうために付け届けという賄賂を贈る商人もいたことでしょう。しかし現代と江戸時代では常識が違うことを考えに入れなければならない。というより現代でも取引先にお中元とかお歳暮という一種の賄賂は贈っている。頼み事をするのに手ぶらではよろしくないという考えは健在。
「役人の子はにぎにぎをよく覚え」というのは当時、流行った川柳。

その頃、江戸と大坂では貨幣が違っていました。江戸では金、大坂では銀が流通。これでは關東と關西での取引に一々、両替しなければならず、両替手数料が発生するので非効率。そこで新しい貨幣発行。
貨幣だけではなく、印旛沼や手賀沼の干拓で農地拡大。穢多や非人、そしてアイヌという差別されていた人々を使って蝦夷地(北海道)開発を進めようとした。差別されていた人々への救済策という面もあった?
農地だけではなく、金銀の鉱山開発も視野。


乱切りの茄子を揚げ焼き。

当時、蝦夷地にロシアが出没。密貿易をする者もいました。それを取り締まるよりも公認した方が経済が活性化するという考えを持った。但しロシアとの交易は思ったような利益が上げられないと悟ると撤回。それでも国防上、重要な所ということで蝦夷地開発には御執心。
享保の改革のような倹約と支出減による緊縮財政策ではなく、積極開放政策を取ったということ。
田沼時代、後世に名を遺した文化人が多く輩出。
青木昆陽、平賀源内、本居宣長、杉田玄白等々。
特に平賀源内と意次は密接だったとも言われる。


微塵切りの大蒜、玉葱を炒める。

このまま意次の改革が成功していたら、日本で資本主義や産業革命が起こり、幕府の寿命も延びた?
更に現在のような親米國ではなく親露國になっていた?
そうなっていないということは失敗。というより足を引っ張られて失脚。
田沼意次の改革を阻んだのは守旧派というよりも朱子学。
江戸幕府は儒学の中でも忠孝を重んじる朱子学を武士の基礎学問として奨励。
どういう教えかというと親には孝行、主君には忠義を尽くすのが人の道。
教えの一つに祖法を違えずがある。親や先祖が定めたことをみだりに変えてはいけないというもの。
鎖国は祖法であり、ロシアと貿易などとんでもないこと。
幕府の収入は米が原則。それを銭に替えるなど、これも許されざる愚行。
朱子学を学んだ者からはそう見える。
更に商売とは何も生み出さずに右から左に物を動かすだけで利益をむさぼる卑しい行為。そんな商人に特権を与えるなど許されない。


ズッキーニとピーマンを投入。

庶民の間にも、特権を得た商人やそこから賄賂を受け取っている意次へのやっかみが広がった。というよりも誇張した流言を反田沼派が広めた?
悪いことは重なる。
浅間山が噴火。それに伴い天明の飢饉発生。
当時は天変地異は為政者に德がないために起こるという迷信。
噴火も飢饉も田沼意次のせいと思う人もいたことでしょう。
印旛沼干拓が失敗。これも仕向けられた?
どんどんと暗い影が忍び寄る。
ついに江戸城内で事件。
意次の息子、意知が佐野政言により斬殺。
この時、周囲の者達は誰も止めず、それどころか意知の逃げ道を塞いだという。
意知は意次以上に有能とも言われていたので、余計に恐れられていた?


茄子、トマト、調味料を投入して煮る。

江戸城内での刃傷沙汰。忠臣蔵かと思いそうな話。浅野内匠頭同様、佐野も切腹。
その後、何故か米価が下がり始めた。
このことから佐野政言は「世直し大明神」と呼ばれた。
臭いな。
これは意次が公認した株仲間が結託して、落ち目になりそうな意次を見限って米価を操作?
一方、意知の葬儀の列には石が投げられたという。
これだけのことがあっても意次は怯まずに改革を進めようとした。


トマトを潰しながら、水分を飛ばしていく。

しかし十代将軍家治が亡くなると、ついに失脚。
老中を解任され、家禄没収。相良城は破却。
永蟄居つまり自宅軟禁の処分。
こうして田沼意次は表舞台から去った。代わって政治を主導したのは白河藩主、松平定信。


カポナー田沼意次

とろけたトマトの酸味、蜂蜜の甘味、煮切った白ワインの風味がすっきりと野菜によく絡む。
白いズッキーニを頂いたのでそれを使用。色合いもよくなった。
ナスニン、リコピン、食物繊維と栄養たっぷり。
茄子のトロトロ、ズッキーニのシャキシャキと食感もいい。

松平定信は徳川吉宗の孫であり、将軍になってもおかしくない血筋でしたが、政争に敗れて陸奥白河藩主。
祖父譲りというべきか倹約や奢侈禁止を前面に出した寛政の改革を主導。
田沼が進めた政策をことごとく引っ繰り返していった。
緊縮、緊縮で世の中は停滞ムード。
「白河の清きに魚の住みかねて、元の濁りの田沼恋しき」
とは寛政期に流行った狂歌。
田沼意次追い落としを画策したのは定信ではないかとも思える。
大衆は見事にその情報操作に乗せられた。そのくせ今度は締め付けが厳しいと田沼時代を懐かしむ。
人間とは勝手なもの。江戸時代も現代も変わらない。人はなかなか進歩しない。
そんなことを妄想しながら、カポナー田沼意次をご馳走様でした。

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