異言語(文化)を「ゲシュタルト」として理解する。

先日、「ゲシュタルト」という概念に新しく出会いました。
https://www.functionalism.science/2014/05/sns-gives-the-bad-effect-to-the-child-mental-health.html

「ゲシュタルト崩壊」という言葉を聞いたことがある人はいるんじゃないかと思います。同じ文字を見続けた時に起こるアレです。
この記事にインスピレーションを受けて、多言語話者の僕が異言語コミュニケーションについての考えをシェアします。



ゲシュタルト心理学とは人間の精神を、部分的な要素ではなく、全体の構造に重点を置いて科学する学問だそうで、ゲシュタルトとはドイツ語で形態を意味します。
人間が音楽を理解できるのは、音を単一の音としてではなく、「ゲシュタルト」つまり全体のメロディとして認識できるからです。


私たち人間は人とコミュニケーションを取る時、言語を使います。日本人であれば日本語でコミュニケーションを取るのですが、「日本語」だけでコミュニケーションが成立しているわけではありません。
声質、音量、表情、仕草、前後の文脈などなど、様々な要因を「ゲシュタルト」としてまとめて理解します。


テキストベースのSNSを用いたコミュニケーションや情報収集では、「テキスト」という部分的な要素しか理解できない為、その他の要因は自分で想像することで「ゲシュタルトの補填」を行なっています。


こちらの記事では、「ゲシュタルトの補填」能力がまだ発達していない子供の場合テキストベースのSNSではコンテンツを正しく理解できない可能性があることについて言及しています。



で、これって異言語コミュニケーションにも同じことが言えるな。と思ったのであります。(ここからが本題)


上記でも述べたように、対人コミュニケーションでは言語はゲシュタルト内の1つの要因でしかなく、他にも表情、声質、仕草などの様々な要因がまとまって「ゲシュタルト」を形成するわけなのです。


例えば、ヨーロッパでは様々な言語が使われていますが、これだけ近隣の地域だと言語は違えどその他の要因についてはほとんど変化がないために、言語さえ習得すれば上手にコミュニケーションを摂ることが出来ます。
「ゲシュタルト」内の言語の部分のみを置き換えるだけですので。


しかし、これが日本とアメリカ(僕はメキシコなんですけど)とかになってくると、「言語以外のその他の要因」まで違ってくるんです。
日本国内だけで異言語を習得した場合、コミュニケーションに必要な「言語以外のその他の要因」を学習できないため、「ゲシュタルト」としての理解が出来ず、コミュニケーション内で獲得できる情報量に大きく差ができるのです。
もちろんテキストでのコミュニケーションにおける「ゲシュタルトの補填」も行えません。


僕のスペイン語を習得する過程は”現地”で行われましたので、スペイン語を「ゲシュタルト」として理解できます。
つまり、僕と僕と同じ語彙力をもった日本の外語大生ではコミュニケーション内で獲得できる情報に大きな差があるんです。
「ゲシュタルト」という概念に触れて、そういうことに気がついたので書いてみました。


僕は昔から「人の気持ちがわかる子」と言われることがありました。本当かどうかは置いておいて、僕が「人の気持がわかる子」であるとした場合、多分それは「ゲシュタルト」を理解できるってことなんだなぁと思いました。


あ、でも近い未来には小さなデバイスだけで「ゲシュタルト」全体を通信できるようになるはずですけどね。

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