人の死を自分の人生にどう反映していくのかを考える

GW中のある日
突然(ではないのだろうけど)
祖母とお別れをした。

2ヶ月前に90歳のお祝いを家族みんなでしたばかり。

何なら1ヶ月前は食卓を共にしたし
ケーキも一緒に食べた。

テレビも一緒に観たし
ひ孫の一挙一動を愛おしそうに見つめる祖母の
姿もあった。

本当は100歳になったおばあちゃんにも
会いたかったし、
もっと一緒にたくさん色んな所に行きたかった!

だけど、命はいつか必ず尽きる。

その日は、突然かもしれないし
ある程度予測できる場合もあるだろうけど

人は必ず死ぬ。

だから、みんなそれを分かっているから
"今"を一生懸命生きよう!とするのだけど

大概やっぱり明日はあるって
思っている人も多いんじゃないかな

私は少なくともそうやって思ってしまう。
慢心 である。

と、実はこのようなことを
私は半年前にも思ったし、別のブログで書いた。

半年前にも大切な人を亡くした。
それこそ本当突然に。

あの日も
同じことを思った

命はいつか尽きる
だから、今ある瞬間を大切に生きることが
大事だ!!
って、嘘偽りなく思ったのは確か。

だから、
その後の過ごし方は
明らかに変わったし

それこそ
祖母との関わり方も変わった。

いくら長生きしてほしいと思っても
人の命には限りがある

だから、おばあちゃんとの時間を
ひとつひとつ大切に過ごしてきた
自負はある。
自己満足だけれども。

だけど、やっぱり
どこかに
私には明日が存在すると思い込んでいる

だから、明日やろうって思うし
後回しにしてしまう事もある。
慢心の塊なのです、、

普段こうして平和ボケしている私は
身近な人を亡くすことで、その度に
"生きること"について学ぶ。

おそらくこれからもその繰り返しかもしれないなと思う。

その度に自分の生き方を見直させてもらい
少しずつでも今に集中すること、
その意味を分かったようなわからないような
でも、成長していける気がしている。

生に立ち会える事も嬉しい事だけれど
死に立ち会える事も有難い事だと感じる。


正直、祖母があまりに穏やかな表情で
亡くなったので、私はホッとしている。

おそらく最後息を吸ってそのまま、、かなと
推測する。

本当に夜眠ったまま朝方に息を引き取った。
自宅のいつもの寝室で。

だから、私は安心できたのだと思う。

青春時代に戦争を経験して
その後洋裁学校で学び
百貨店におろす服を仕立てる仕事をしていた
祖母

ひと回り以上離れた末っ子の甘えん坊で
わがままな所もたくさんあったけど
でも、いつもよく笑い明るくておしゃれで
とっても可愛い人


死ぬってなんだろう!

姿カタチはなくなっても
私の意識の中、心の中にはずっと生き続けるのだから、あくまで肉体とのお別れなのかな。

だからなのか
16年前に祖父を亡くした時より
喪失感は少ない。

それより、90年も生きた祖母への尊敬と
感謝が大きい。

むしろ側にいてくれる気がして
心強い気すらする。

それが気のせいであっても、
間違いであっても良い気がするな

生きているから
こうして感じられること、

死にたちあって
感じられたこと

また、もうひとつレベルアップして
私の人生に生かしていきたいと思う。



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