芸術の深淵

また、表現が糾弾される現場を見た。
芸術や創作物を構成する表現というものに、不適切という概念をあてはめてもいいものか。

 「芸術」と「広告」は全く別物なのだということ。
本人のエゴによって表現者の内側から絞り出して生み出される「芸術」と、世の中の人々を啓蒙するため、明確な意識の変化を目的として作られる「広告」とでは、性質が全く違っていることをわかっていてほしい。

 広告には適切さが求められている。誇大広告ではないか、差別の意図が含まれていないか、世間の意識を惹き付け、時には誘導する役割を持つ限り、「正しさ」がどこまでもついてくる。
でも芸術は、表現者の内側から絞り出され、当人のエゴに集約されるものだと私は思っている。自分のためや誰かのため、表現の目的は人の数だけあっても、最終的には自分のエゴで生み出されたものが結果として誰かの心に届いているだけのもの。

 だから芸術は批判されるべきじゃない、と言いたいのではない。
だけど、芸術は浮遊物で、どんな形であっても誰かの心を動かした時点でもう芸術としては勝ちなのだと思う。表現者のエゴで生み出された浮遊物を受け取るのは自分たち。生み出された芸術と享受する人が出会って初めて、芸術や表現は特別な色かたちをつけるのではないのか。受け取った私は何を感じるのか、なにが美しくてどこが不快なのか。物議が巻き起こるのであればまずそれが大前提であり、批判の対象は表現者ではなく表現者の生み出した芸術そのものであることが大切なのだと思う。

 表現の適切さに敏感になっている今の世界、性的な表現は特に、誰も傷つけないことを求められているけれど、本当はいじめの描写も自死殺人の描写も、病気や事故や天災の描写も、ストーリーに組み込まれることで誰かを感動させられる要素をもっているのと同じくらい、誰かを傷つけているかもしれない。だけどそれが許されて、淘汰されずに残っているのはそれらがフィクションだから。芸術だから、センシティブな銅像だってまだ街のそこらに立っている。

 美しいものが危険性を持っていることがある。悪者が美しく映ることもある。私たちの心を打つダークヒーローだって存在してる。
悪としての美しさ、アンダーグラウンド的な魅力に対して、それらが表現として「感動的で美しい」ことと、現実世界で「倫理的に正しい」こと、それを履き違えないことがフィクションや芸術物の楽しみ方ではないのだろうか。

 多様性と口には出しておきながら、目に触るものをつまはじきにする世の中。自分の正しさを証明するために他の人間を曝し上げる世の中。

 芸術と向き合う時、誰がどんな思いで何を表現したのか、私は表現者の奥にあるものを見る目をずっと衰えさせないでいたい。

 深淵がこちらをのぞいているように、きっと芸術側だってこちらの品性と感性を試しているのだろうという気がするから。








最後に
私が投げた芸術への疑問に対して自分なりに向き合ってくださった、日下水さんへ
感謝と敬意を表した返歌の意味も込めて。






ありがとうございます。貴方になにか届いたのなら、それで幸せです。