結局バンクシーってなんなんだ!?【「バンクシー アート・テロリスト」毛利嘉孝】

「バンクシー」と聞いて私が想像するのは、「突然街中に絵を描く正体不明の人」

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「あの作品だよね!?」のイメージすら出てこない。

数年前バンクシーの作品の高額オークションの報道がされていた気がするが全然テレビを見ないのであまり記憶にない。

そして私はアートについて知識も全然ない。

というわけで初心者の私が今回バンクシーについての本を読んでみたのだが、思っていたよりおもしろくて読み終わってすぐにバンクシーのインスタグラムをフォローしてしまった。

普段なら手に取らないような本な気がするが、「課題図書」となっており読んでみようとなった。

そうやって新しい世界が広がっていくのは、とても爽快でおもしろい。


「アート・テロリスト」ってなに!?

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「テロリスト」と聞くとついつい暴力や殺人とか怖いことをイメージしてしまうが、どうやらその「テロリスト」ではないらしい。

多くのテロ行為が実際にダメージを与えることだけではなく、そのことによって世間の関心を集めることにあるということを考えれば、バンクシーのさまざまな政治的プロジェクトはテロ行為に似ているかもしれません。けれども、そこに物理的な暴力、特に具体的に人を殺したり傷つけたりすることがバンクシーの作品に介在していないことには一定の注意を払う必要があります。

著者の毛利嘉孝さんによるとバンクシーが「アート・テロリスト」と呼ばれる所以は2つあるそうだ。

①圧倒的で暴力的な理不尽な政治状況に対して、どのように「怒り」を表明するか
②既存のアートシーンに対するテロリズム

この2つについてや、その他興味のわいたところについて感想を書いていきます。


アートを通し理不尽な政治への怒りを訴える

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「ナパーム弾」というバンクシーの作品がある。


もとになったのは、ベトナム戦争中米軍が落としたナパーム弾から泣きながら逃げる全裸の少女の写真。

しかしバンクシーの作品でその少女の手を握るのは、ミッキーマウスとマクドナルドのドナルドだ。

私はこの写真を知らなかったのだが本書で作品を見て、悲しそうな表情で泣きわめいているであろう少女と笑顔で手を繋ぐミッキーとドナルドには、ぞくっとするほどの違和感を感じた。

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泣きながら空爆から逃げるベトナムの少女の手を引くミッキーマウスとドナルドという絵は、アメリカの権力に対して徹底的な批判として理解できるでしょう。アメリカは、戦争でベトナムに勝つことができませんでした。けれども、消費主義の魅惑によって再び世界を支配しようとしている。このことをバンクシーは批判的に描いているのです。

表面上ではアメリカは戦争に勝てなかった。しかしそれではアメリカの立場がない。

武器とかの恐怖ではなく、あくまでも笑いながら、楽しそうに見せながら、「みんなのため」というような表情で再び世界を牛耳ろうとするアメリカを示す作品と知って驚いた。


私はベトナムのダナンという都市に二度旅行に行ったことがある。

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旅行するにあたりベトナムのことを調べてみると、戦争によって亡くなった人が多いことによって平均年齢が30歳程度とやたらと若いことを知った。

そしてダナンが激しい戦地であったことも。

しかし旅行してみるとそんな辛いことがあったことは全く感じられないほど街は明るく、人びとの表情もやわらかな印象を受けた。

きっといろいろなことを乗り越えてきたのかと思うと、心が苦しくなった。

私は戦争などの悲しいことを知ることが苦手だ。

ベトナム戦争もそうだし、太平洋戦争も。

歴史を知らなくてはと思いながらも、その悲惨さに目を向けられない。

今の生活が当たり前に続くだろうと思ってしまいがちだが、そんな保障はない。

無意識のうちに刷り込まれていつしか煽動されていることって実はたくさんあるのだろう。食事にしてもイベントにしてもどんなことでも。

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「ナパーム弾」の少女と同じで、私たちも世界的キャラクターと知らないうちに手を繋いでいるのだ。

他にも、不機嫌なテーマパークと名付けられた「ディズマランド」や、世界一眺めの悪いホテルとしてパレスチナにある「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」などもバンクシーは手がけ、アートを通して政治に対する怒りを訴えている。

警察官や衛兵を題材にした作品もバンクシーの人気シリーズだそうだ。

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バンクシーのようなグラフィティ・ライターを取り締まるのが、警察官などだ。しかし彼らも作品テーマとしてしまう。

非人間的な存在に人間らしさを与えることで、意味や文脈を変えて見せているのです。それは単なる権力批判ではなく、権力の行使がいかに空しくバカバカしいことなのかを明らかにしつつ、それを行使する人々が抱え込む矛盾を明らかにする行為なのかもしれません。


既存のアートシーンに対するテロリズム

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これもまた私は知らなかったのだが、バンクシー作品がオークションに出品された際、作品がシュレッダーによって切り刻まれるという事件があった。これはバンクシー自身が仕掛けをしたものだ。

シュレッダー事件は、販売するために作った作品を切り刻んだものですが、こうしたオークションビジネス全体に対する抗議として理解することもできます。

しかし作品は半分刻まれたにもかかわらず、予定通り1億5000万円で落札される。

お金が目になる女性

どれだけ過激なこと、くだらないことをやっても市場の方が回収をしてしまうという一種の諦念

普通だったら買おうとしていたものが原形を留めていないようなら、購入はしないだろう。それがアートとなると話が違ってくる。むしろ価値があがってしまうこともある。

バンクシーとしては過激ともいえるパフォーマンスを通して、アートに影響している資本主義を訴えているのだと思う。

近年バンクシーのプロジェクトが巨大化され、組織化されていくのを見ると、アート・マーケットのドタバタに距離を取り、時に徹底的に批判しつつも、そうした批判も皮肉なことにまたアート・マーケットを加熱させる燃料になっていることを自覚し、もはや諦めているようにも感じられます。そして、この資本主義経済に対する両義性、アイロニカルな態度もまた、ポップ・アイコンとしてのバンクシーの魅力なのかもしれません。


「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」というドキュメンタリー映画を作成したバンクシー。タイトルにもなっている一文は、美術展の最後の出口を示す案内板によく書かれるのだそう。

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よくよく考えてみると美術館でも映画館でもテーマパークでも、楽しんだあとは「ギフトショップ(お土産屋さん)」がつきものだ。

当然のことで考えたことがなかったが、確かにアート作品を商業用として二次利用している。

バンクシーは自分の作品をTシャツやマグカップなど商品化することにきわめて批判的な態度を取ってきましたが、成功を収めるにつれ、結局はそうした商品化のプロセスに取り込まれてしまったことも確かです。

この世界で生きている限り資本主義とか経済とかお金とか、切っても切り離せないものが必ずある。はじめは抗っていたバンクシーもどこかで諦めた、というか、諦めがついてしまったのかもしれない。


バンクシーはインタビューでこんなことを語っている。

最近自分の作品が生み出すお金には、少し居心地が悪く感じているんだ。けど、簡単に解決できる問題でもある——単にぐちぐち悩むのをやめて、全部そのお金をどこかにあげてしまえばいい。世界の貧困についてのアート作品を作って、その売り上げを全部いただくというのは、さすがのオレにもアイロニーが効きすぎている。
オレが資本主義を気に入っているところは、敵にさえも場所を作ることだ

バンクシーにとってお金って何なのかが気になる。

匿名で寄付もしているのかもしれない。

そして資本主義が敵にも場所を作るってことはどういうことなのだろう。

一部の権力者だけが利益や覇権を手に入れてるように見えるがそうではないのか。


グラフィティとは「落書き」のこと

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グラフィティ・ライターやストリート・アーティストたちの仕事は、名前を与えられない無数の人びと——空間から排除された匿名の人びと都市の「景観を取り戻す試みです。

バンクシーはイギリスの西部の港町ブリストルで生まれ、そこでグラフィティ・ライターとして活動し始めたことがアーティストとしての始まりだった。

「グラフィティ」とは落書きのことで、「ライター」とは自分の名前を「書く」ことを意味しているそう。

美術という領域が特定されたり、私的所有権や財産権という近代的な概念が導入されて合法/非合法という議論がなされたりするはるか昔から、人々は自由に絵をいろいろなところに描いてきた

確かに古代遺跡の中に人がモチーフとされる絵のようなものがあることを世界史の授業かなにかで聞いたことがある。

バンクシーがそれをもとに、ショッピングカート引く古代人のような作品を作って勝手に美術館に展示したというのには笑った。

展示の仕方があまりに自然でしばらく係員も気づかなかったというから驚きだ。

人類という歴史を大きく考えると、人間は公共の場所で自由に絵や文章を作ってほかの人びとに見せてきました。こうした公共空間が、国家や地方自体体、あるいは私企業や土地所有者によって独占的に、そしてすみずみまで管理されるようになったのは、ごく最近のことにすぎないのです。
日本では都市の風景は、ほとんど私有化されてしまっています。端的に言えば建築物の持ち主が風景を占有してしまっているのです。
その結果、都市には無秩序で統一性のないイメージが氾濫しています。落書きはそうした私的財産に対する単なる破損だと考えられています。
日本の都市にグラフィティが少ないということは、決して誇るべきことではないかもしれないのです。落書きが一つもない整然とした空間に対する志向は、管理する側の視線を管理される側が内面化してしまった結果でもあるのです。

落書きがある=治安が悪いというイメージを私ももっていた。

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しかしバンクシーほどの市民権を得た絵だったとしたらそんな風には思わないはず。

だとしたら、なぜ他の絵だとそう感じてしまうのか?

もしかしたらこれも私たちはミッキーとドナルドに手を繋がれているのと同じで、管理する側の都合がいいという理由で「落書きはよくない」と思わせられていたとしたら……。

グラフィティ・ライターたちが落書きに自分の名前(本名ではない)と書き入れるのは、建物を含めて環境が誰のものでもなく、自分を含めたみんなのものである、ということを示しているのかもしれない。


匿名性を貫き通すバンクシー

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有名性が跋扈(ばっこ)するアートシーンに対して匿名性を維持し続けること。そして、美術館やギャラリーではなく、あくまでもストリートをその表現の拠点とすること。このことでバンクシーは、アート界におけるテロリストを演じているのかもしれません。

テロリスト的な活躍であるからこそ、伝えるメッセージも強固になりたくさんの人へ届けられるのだと思う。

こんなにプライバシープライバシーと叫ばれる筒抜けな世の中なのに、依然としてバンクシーが何者かわからないなんておもしろい。

バンクシーを正体不明のまま活動させていたいという人びとの欲望の結果ではないでしょうか。

そうだと思う。なんでもすぐに調べられる時代だからこそ、知らないことを求めているのかもしれない。


イギリスのポップ・アイコンとして不動の地位を築いたバンクシー。

非言語のアートだからこそ、世界中でメッセージを届けられるのだと感じた。

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ポップカルチャーがユーモアとともに救い出そうとするのは、公的な言語から消されてしまっている複雑な感情の起伏です。バンクシーの人気は、このポップのブラックユーモアに支えられているのです。


日本でもバンクシーの作品ではないかと言われているネズミの作品がある。イギリスにもこの類のネズミはたくさんいて、バンクシーのタグとして有名なんだそうだ。

最後にバンクシーの一言。

もし君が、誰からも愛されず、汚くてとるに足らない人間だとしたら、ネズミは究極のお手本だ。


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