つぶやき9日目(https://youtu.be/0LWSU7WgCh8 から転載)

言語というものは年を重ねるごとに進化していきます。日本語でいうと、平安時代に使われている日本語と現代の日本語は全く違います。学校で古文を習ったことがある人は充分わかるんじゃないでしょうか。古文は文法と単語を習えば平安人(仮称)と話せるんじゃないのと思っている人、残念ながら話せません。現代の日本語とはかなり発音が違います。平安人に「今は昔、竹取の翁といふものありけり」みたいな文章を読ませても聞き取れないでしょう。このように言語は単語や文法だけでなく発音もかなり変わってきています。今日はこんな感じで日本語の今と昔を照らし合わせてみましょう。

奈良時代あたりの日本語では「つ」を使って場所を表していました。たとえば、「まつげ」は「目にある毛」だからまつげなのです。他にもマイナーですが、「天つ風」や「澪標(みおつくし)」なんかがあります。「澪標」は「身を尽くし」と掛詞になっていました。現代ではダジャレなんかと軽く扱われますが、昔はそこに美しさを感じていたのでしょうね。

否定に使われる「ず」も現代では一番といっていいほど名残があります。そもそも文法として消えていません。「アポを取らずに取材する」みたいに普通に使われます。しかし、文末に来るときには「アポは取らない」といい「アポは取らず」とも「アポは取らぬ」とも言いません。なんで「ず」を捨てて、「ない」を選んだのかは私はにわかなのでわかりません。文字数が増えてるのに、謎ですね。

「れる」や「られる」には現代では受身、可能、尊敬の意味しかありませんが、「鬼籍に入った彼のことを思うと心が悼まれる」などのときの「れる」はこのなかの意味にはありません。これは昔使っていた自発の意味です。意味としては、意識せずに自然とその行為が行われる(受身)、という感じです。

現代の日本語もめくるめく変化しています。「ら抜きことば」はその最たる例で、ら抜き警察もいるとかいないとか。あと、「晩御飯食べ行く」などの「に」の欠落も最近見られ、私が文章上で確認しているので00年代半ばにはもう見られています。ネットで調べても全然出てこないのが驚きですが、私は便宜上「に抜き言葉」と呼んでいます。

正直古文を学ぶ意味は高校教育のなかで一番わかりません。でも、現代の日本語と比較でき、それを意識して日本語を使えるのは少々楽しいかもしれませんね。

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