サークルメンバーの車

【 1983(昭和58)年5月 20歳 】



 アルバイトや運転免許のことばかり書いてきたが、ミモちゃんと出会ったのも車を買う決心をしたのもテニスサークルとその先輩カップルが切っ掛けであった。この約7か月、この間私はバイトと免許取得に明け暮れていたが基本的にサークルには参加していた。活動日は水曜日と土曜日。参加者は大学の駐車場に集合。そこからテニスコートまでメンバーの車に分乗して向かうことになっていた。テニスコートは大学のコート(体育会用)ではなく公営の安いところを借りていた。ご存知の方も多いかと思うが、そういう公営の運動施設は全国的に電車やバスなど公共の交通機関でさらっと行けるような便利な立地にあることは極めて稀である。仮に駅の近くにあったとしてもその駅そのものが市街地からかなり遠い僻地にあったり、『○○運動公園前』なんて名前の駅でも実際テニスコートまで歩けば2~30分くらいの距離であったりと…とにかく車がないと話にならない場合が多かったのである。なので車を持っているメンバーはとても重宝されていた。  
 またその中には車を持っていたために大きな収穫を手にしていた輩が何人かいた。帰る方向が同じ女の子を乗せているうちに仲良くなり自然と付き合い始める者。一方、帰る方向が全然関係ないのにマメな性格と執念をフル稼働させて女子をゲットする者などである。やはり、田舎の男子学生にとって、『車を所有しているということは、果てしなく大きなアドバンテージを持っている』ということになるわけだ。だがもちろん、このアドバンテージもまったく意味を成さない哀れな男がいるのも世の習いと言える。件の山本もその一人であることは言うまでもない。
 さて、また本題から逸れまくってしまったが、基本的にミモちゃんと私も練習場所のテニスコートまで先輩や同僚の車に乗せてもらっていたわけである。その面々のプロファイルと車を観察するとなかなかこれが面白い。色々な車に乗せてもらうのは当時の車の流行を知る上でも参考になった。
先ず英米語専攻で育ちの良さそうな尾崎先輩はマツダの赤いファミリア。当時一番若者に人気のあった車だ。同じ出雲大だけでも3~4台はあっただろうか? 100%とは言わないがこの車に乗っている人にはほぼ彼女がいた。と言うか、彼女の希望でこの車を買った男が多かったと考えられなくもなかった。はっきり言うと『軟派車』の代表格である。そしてこの赤いファミリアには『掟』がある確率も高かった。それは『土足厳禁』。車内にはカーペットが敷き詰められ靴を置くトレイが完備されていた。この傾向も大多数が彼女の趣味であると思われる。禁煙であることも多く家庭的でピュアな女心が可愛くも感じる。しかし乗せてもらう身分で何だが…面倒くさくてしょうがなかった! 私は思った。『いくらミモちゃんの好みがあったとしても、軟派車を選ぶのは止めておこう。』
 次はロシア語専攻、一見ワイルド顔だが面倒見がいい竹本先輩は日産パルサー。色は黒とグレーのツートン。これも人気が高かった(但し男性から)。日産の代表的なファミリーカーであるサニーよりもスポーツ性を高めた車だった。ただし同じ車種でも多くのラインナップがあり、スポーツ性能が高いのは上位グレードのものであり、それを証明するようにラリー仕様に改造されることもあった。そして何よりもこの車こそが、原付にギターとミモちゃんを乗せて雨のなかを不細工な顔をして走っている私の横をパスした車であった。竹本先輩の彼女、仲瀬さんが発した「ばいば~い!」は決して忘れない。私は思った。『私に屈辱を与えた貴方達に、あえて感謝します。』
 インドネシア語専攻、学生にしては貫録のある一年留年している5回生、牛田先輩はトヨタのスプリンタートレノ。白黒のツートン。これも男性からの支持が多かった。っというのも当然。当時のトヨタ車の中では一番のスポーツタイプで、学生が所持するのはかなりの贅沢品だ。そうは見えなかったが今考えると牛田先輩はお金持ちのご子息だったのだろうか? 知る人も多いと思うが後にコミックやアニメで人気の『頭文字D(イニシャルD)』で主人公が運転する車はこの牛田先輩の車の1世代後継モデルに当たる。そういうタイプのせいか牛田先輩から聞いた話だが、走行中にはよくヤンキーのお兄ちゃんから『勝負しようぜ!』的な絡まれ方をされたそうである。しかしそんな憧れの車に乗っていたのにもかかわらず…牛田先輩には彼女がいなかった…。穏やかで優しく、サークルの女の子にも受けは悪くなかったのだが…ちょっと女子大生にとって彼の男臭さは強過ぎたのかもしれない。ヘビースモーカーの牛田先輩。車の中はタバコの湿った臭いが染み付いていた上、缶コーヒーや弁当屋の食品トレイなどのゴミが散乱していた。私は思った。『いい車乗っているんだからもうちょっと大事にしましょう…。』
 英米語専攻2人目、同じ3回生の大家は三菱ミラージュ。シルバーカラーで側面には大きく『Mirage』と黒でペイントされていた。三菱自動車で初めてのFF車であり随所に革新的な工夫があった。例えばボンネットはチルトボンネットと呼ばれるものだった。これは一般的な車はヒンジ(蝶番)が後ろにあり、ボンネットを開くとワニの口のようになるが、ミラージュは反対だった。車を前から見た時の姿は、カスタネットを後ろから見た感じと同じである。ただそれは当時よりも数年前に日本国中で流行ったスーパーカーブームで男達が憧れたフェラーリやランボルギーニに良く見られたタイプだった。なので使い勝手がどうのこうのというより、とにかく何となくカッコ良かったのである。もちろんデザインも斬新だったのは言うまでもない。その上テレビCMをはじめプロモーションには莫大な資金を使っていたためイメージ戦略もバッチリだった。また本来『ミラージュ』の意味はフランス語の『蜃気楼』なのだが音感からか近未来的な雰囲気がしていたのも確かだった。そんな風に人気を博した訳なのでマツダファミリアのライバル車とされていたこともあったが、『彼女』という人種にはスーパーカーに憧れる男の気持ちは通じなかったようで結局ファミリアには及ばなかった。大家は私から見てもいわゆる『モテルタイプ』だったが、不思議と彼女の話を聞いたことがなかった。だが、大家の横には必ずと言っていい程長身でスリム体系な男、森園優哉がいた。私は思った。『こいつとは今後…女の子の話は…しないでおこう。』
 さて次はまた同じ3回生で同じフランス語学科生、また同じ留年の浅田。車は赤いホンダのシティ。これもセンセーショナルな登場をした車であった。センセーショナルとは言っても三菱ミラージュとは逆で時代の先取り感がないデザインだった。全長は短く幅は一般普通車並み、そして何より車高が乗用車としては信じがたいほど高かった。つまり、『ずんぐり』していたのだ。他の車が未来的、先進的、エレガント性などを強調している時に、ずんぐりしたドン臭そうな車が出てきたわけだ。まるでファッションショーのモデルの中にクマモンがいるようなものである。だがしかし…これがとんでもなく世間の支持を受けた。その理由の一因としてテレビCMが秀逸であったことが挙げられる。私などは今でもその時に使われた映像と音楽が脳裏に鮮明に残っている。だが、人気の理由はテレビCMよりも、その特徴的なデザインを多くの人が『愛嬌がある』と捕らえたからであろう。また、女子大生にとってその感じはマツダファミリアと同じものだった。『彼女』が喜ぶ『彼女のため』の車であったと言える。結局、この『ずんぐり』した時代の先取り感のないデザインは、一般人が連想していた固定的なアイディアを超えた別次元のスタイルであったわけだ。ところがこのホンダシティ。いい意味で予想を裏切った。実際乗ってみると窓が広くて座席も高いから見晴らしがいい。コンパクトなので街中でもスイスイ走れる。そして何より『ずんぐり』なくせに走行性能が良かったのである。なんと言ってもホンダはエンジンが高性能。…そもそも冷静に考えれば日本の自動車メーカーの中でも技術力にプライドを持っているホンダが走行性能を見逃す訳はなかったのである。ところで浅田はまったく軟派な男ではない。赤のシティを買ったのは彼のお母上だった。浅田の場合、お母上の車を普段大学に乗ってきているわけだ。『軟派車』に乗る根が真面目で実直な男…浅田。決して目立ちたがり屋ではないが皆から愛されいつの間にか中心に居る。ただ、女子大生にはあまり興味がなく電車通学する日に見かける同じ車両の大人っぽいOLに心を奪われた浅田。彼は理想の彼女のタイプにはうるさかった。私は思った。『浅田! おまえには赤のシティは似合わない。そのOLにも似合わない。』
 イスパニア語学科の南村さんは白のスバルレオーネ。こう言っては何だが当時スバル車はあまり人気がなかった。名車であり国民的大衆車『スバル360』を生んだ優れた技術力のあるメーカーだが当時若者に支持される車がなかった。このレオーネも通常仕様として4WDが初めて採用された優れた車ではあるが、デザインはもちろんギアが5速ではなく4速(当時普通車は5速が当然の仕様)など他社に比べてトレンドを掴み切れていない感が多かった。実用的なはずの4WDにしても『山間部(田舎)で重宝される車』と垢抜けないイメージが世間で蔓延してしまっていた。では何故南村先輩はレオーネに乗っていたのだろうか? それは彼が超スキー大好き人間だったからだ。彼はテニスサークルに属してはいるが、初冬から春にかけてはスキー三昧の日々を過ごす。大山や広島県との県境付近など近郊のスキー場にも頻繁に通うが、春休みなど長い時間が取れるのであれば良い雪質のスキー場を求めて長野県や新潟県まで繰り出し、スキー場内の宿のバイトをしながらスキーに明け暮れる。だから彼は人気車種よりも実益に勝る4WDのレオーネを選んだのである。ただここで少々補足する。当然だが出雲は山陰地方。冬は雪がよく降る。だから南村先輩に限らず雪道に強い車は重宝されるのだ…が…では何故他のメンバーは誰一人4WDのレオーネを買わなかったのであろうか? それはファミリアもパルサーもミラージュもシティも当時若者に人気があったこれらの車は基本的にFF駆動のものが多かった。このFFは4WDには劣るものの基本的に雪道には強い駆動方式である。なのでたまに近郊のスキー場に行くくらいなら特に難はないのである。南村先輩のような事情がない限り、山陰地方の出雲でさえデザインや人気優先で車を選んで問題がなかったのである。で、こんなスキー馬鹿な南村先輩。雪が降るとスキーのことしか考えられない男。大人の女ならまだしも、こんな男を選ぶ奇特な女子大生は少ない。当然、彼女はいないのであった。私は思った。『南村先輩…あなたは男としてはカッコイイ。でも羨ましくはない。』
 ドイツ語学科4回生。塚原先輩は青いダイハツのミラ・クオーレ。仮免に受かった日、寺石先輩に送ってもらう途中に中古車販売店でミモちゃんがカワイイと言った車である。7台目にしてやっと私が購入を考えている軽自動車の登場である。ライバルはスズキ自動車のアルト。実はこのミラ・クオーレ、当時の軽自動車で一番ヒットした車である。そのスタイルはフェンダーミラーをドアミラーに変更さえすれば現在でも通用するのではないかと思えるくらいの代物。軽自動車なので全体的に小さいのは当然だが、少し背の高い愛嬌のあるデザインは気持ちホンダのシティを連想させるものであった。その人気を裏付けるように、軽自動車であるにもかかわらずダイハツはもちろん自動車関連企業からドレスアップキットがたくさん発売されていた程だった。そして何より特筆すべきは、この車が『商用車』として世に出たものであることだった。そもそもダイハツにはマックスクオーレという軽乗用車があった。そのモデルチェンジ後の車がクオーレ、そしてその姉妹車としてミラ・クオーレが生まれた。クオーレは乗用5ドア(4+ハッチバック)、ミラ・クオーレは商用3ドア(2+ハッチバック)だった。元々軽自動車は税金が普通車に比べ極端に安い。しかも商用車扱いとなると更に安い。またダイハツ社には微妙な結果であろうが、デザインとしても商用のミラ・クオーレの方が洗練されていた。小さなボディには5ドアより3ドアの方がしっくりと感じられた。そして何よりもこの姉妹車2台は後ろから見た印象が大きく違った。乗用車のクオーレよりも商用車であるミラ・クオーレの方が荷物を出し入れしやすいようにハッチバックが大きく低い位置まであった。そのためにブレーキ、ウィンカー、バックのそれぞれのランプ類がクオーレよりも断然コンパクト且つシンプルに配置されていたのだ。結果としてそれがよかった。今でも同様だが、無駄を省いたシンプルなデザインは人気が高い。このスッキリしたヒップは大いに受けたのだ。そして何を隠そう実は私もこの車が気に入っていた。ただ、ミモちゃんが中古車販売店で見つけた時もそうであったが、まだ、リリースされてから年月があまり経ってない上に、超人気車種だったため予算上の都合がつかなかった。だがしかし、仮に予算の問題がクリアだったとしても恐らく私はこの車を買わなかったであろう。何故なら私はかなりの天邪鬼。世間でよく見かける車に乗る気にはなれないのである。まったく面倒臭い性格だと我ながらに思う。ただ、この車はその後も人気が長く続いた。ミラシリーズは一時代を築くことになる。ところでこの車のオーナーである塚原先輩。3か月前までは助手席にいつも可愛い彼女が乗っていた。が、今はいない。でもその彼女との思い出グッズがまだチラホラと残っている。縫いぐるみやアクセサリー…。乗せてもらった時は絶対にそれらのことを口にしてはいけない…。それがサークル内の暗黙のルールだった。私は思った。『その未練がましいところがフラれた原因じゃないのか?』


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