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この世で、みんなと、一緒に生きる、とは

自分ひとり幸せになったって仕方ないってみんないつどんなときに気がついたんだろう。

私は「世の中」に感情があること、自分に降りかかってはいない悲しみに悲しんでいる人々の存在を認識したのは東日本大震災のあとのSNSの中だった。人は自分以外の人が傷ついても傷つくのだ。どんなに心満たされていてもたったひとつのニュースに涙したり憤ったりする。私自身が共感性のバグみたいな立ち位置にいるせいで自分以外の人々はもっと無感動でフラットなのだと思っていたところがあった。そんな認識を大きく改める必要があった。私以外の人間も弱い。大きな風が吹いたら倒れてしまう。
それから危機感を持ち始めたのは2019年。ひとつの報道をきっかけにここはひとりでは立ちゆかないところだと「世の中」への認識がアップデートされた。責めるべき絶対悪はこの世にないと思っている私のアップデートは静かに終わったけれど、同じような認識を持った人々が声を上げたり、本を読んで考えたり、黙々とものを作っている姿を見てきた。
せめて隣にいる人に、出逢う人たちに、やさしくしたい。やさしくなりたい。せめて住んでいる町だけでも、やさしいところにしたい。そういう人の傍に立って、その視界を内側に焼き付けて、私はまた白紙の前に帰ってくる。iMacの画面を見ている。

人には人の領分がある。
私にはおおきな声は出せない。一撃必殺みたいな強い言葉は出てこない。私の言葉を読むひとはおおきな文字で書かれた強い言葉を心から頼るだろうか。
みんなが思う「みんな」はそれぞれ違っていて、私が思うみんなはひとりのひとの集まりだ。ひとりで本を読んでいるひとがたくさんいる場所を指して私はそれを「みんな」だと思っている。それぞれ読んでいる本も違えば、時には窓の外ばかり見ているひともいる。たとえその心の中にどんな嵐が吹き荒れていても、その場所には屋根があり、そこは静かで、そこは守られている。そこにみんながいる。
そこにいるあなたたちに話しかけたいことがあるから、私は「あなた」と言う。
私が町で本を売っていたら、みんなはもっといろんな動き方をしていただろうし、顔も声ももっと鮮やかに浮かぶだろう。十年も本を作って売っているけれど、会ったことがない人ばかりだ。でもそこにいるってわかる。わかるから、私はみんなのことを見失わないようにここにいる。会ったこともないけれど、みんなといたい。こんなにもひとりとひとりだけど一緒にいたい。一緒に生きてゆきたい。

一緒に生きること。その拡張性を教えてくれたのはあなたたちだ。
私の体がどこにあっても飛んでゆけることを教えてくれたのもあなた。
あなたがいてくれたおかげで、私はこのように在ることができる。
ありがとう。
(名前を教えてくれたあなたのことは心の中で名前で呼んでいます、)

この世の中に、あなたも私もいる。
私はすきなものを作っていたいけれど、あなたのことを忘れて書くことはおそらくもう難しいです。
いつだって言葉は読まれるためにここにやってくる。
生きている限りはそのことに可能性を感じていられる。

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