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観光記(第二章)

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いつか「観光記」になるであろうものが入っています。 (2020年4月~2021年9月)
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ここで星や雨を浴びながら

流れ星宛て交わして惚けたまま部屋を出て、屋上に上がると雨が降ってきた。コップが上から下へ僅かにふるえ、なまぬるい水に一滴の雨が混ざる。ここより暗いところからこの地上を目指して降ってきた一滴ずつを浴びる。しずかに腰掛けてひとりきりで雨を浴びられる場所があることがうれしい。ああ、ひとりでいるならば窓も屋根もいらないのだ。 (半端な田舎に住んでいて、山も田畑も川も虫も鳥も風も野花もぬかるみも雪道も夕焼けも近しかったけれどその中で年若い女がひとりで佇んでいることは異物でしかなかった

人を憎まないと決める②

人を憎まないと決める前のこと。 どうしても手放せないある怒りのさなかにいた頃、ふいに「いつまで生きるつもりなの?」と問いが降ってきた。 「ゆるさないって、手放さないって、どういうことを選んでいるかわかっているの?」 「これは正しくない感情だ」と力尽くで自分を捩じ伏せながらひとつずつ並べ立てる。 出会ったことは素晴らしかった、心を通いあわせたことも素晴らしかった、私ひとりこのような気持ちを持つことがなければすべて完璧だった、大事なものが損なわれてしまったという事実を見たくな

人を憎まないと決める①

人を憎まないと決めた。 煙草をやめようと思ってやめたように、人を憎むことをもうしないと決めた。 「やさしいんだね」と言われた。やさしくはない。良い悪いじゃない。すでに答えが出ている問いとして置いておけば、その感情の前に立ったときに何も考えずに選ぶだけで済む。たったこれだけのことが今まで何度自分を踏み留まらせてくれたかわからない。これを「憎んでしまっても仕方ない」としておくと手当り次第に善悪の定規をへし折り、ありったけの感情を焚べて火柱のようになってしまう。もうそんな風に自分を

分断について書くことを選ぶ

オリンピック開催にもやもやするのは東京に住むひと働くひとが大事にされていないと感じるから。 でも日常に目を向けると自分の大事なものやひとを大事にしてくれないひとやことなんて溢れている。そうだ。友だちが不条理な目に遭っているとき、自分にできることなんてない。たとえ「ある」と言ってくれても、結局いつも「私自身が満足できること」はできない。満足できる基準がそれこそ綺麗事の範疇を出られないから、したいこと、できること、すべきことのギャップに何回も何回も飽きずに躓いて憤って悲しみ続ける

庭の眺め

同じことを長く続けていると、その庭の中でもすごく日当たりのいい場所といくら季節が巡れど一向にほの暗く淀む場所がわかってくる。自分が感ぜられる範囲はもちろん、きっと自分には思い描くこともできないくらい遠く、密やかなところまで「選んできたこと」は関わっている。それが選んできたもの、選び続けてきたもののほんとうの姿なんだと思う。こちらへ向けられた言葉なのだと思う。 私はその暗がりに花木を植えたかったけれど、どうにも難しい。 あかるくて気持ちいいところで小さな花々を愛でるたのしみと引

いつか宇宙の果てでこの目を売るとしても

7月に詩をお届けする方々の誕生日や大事な日をカレンダーに入れてゆく。勤務シフトも通院日も予定も入っているカレンダーに、おひとりずつ名前を入れる。 「誕生日のための詩」は指定日配達だけれど郵便追跡はつけていないので私にできることは投函までだ。でも手紙はいつだって届く日が一番大事な日。ひとりで、ここで、あなたの誕生日を思い出すことも私のよろこびである。この仕事のたのしみである。 今日は、握手も抱擁だと思い出したのでした。 抱擁の言語を教えてもらうよりも前、十代の私も別れ難い瞬間

4月、生まれてしまった者の踊り方、抱き合い方

肉体があるうちにすることはすべて肉体をなくしたあとも在るためかもしれない。そう思い至るやいなやそらおそろしくなり、4月の夜風にひとりふるえた。 死んだあとのことに執着するなんてみっともないとすら思っていた私の肩にふれたあなたは軽やかでずいぶん気持ちよさそうだった。 この世に生まれてしまったからできないダンスがあるのだ。 「わかるよ」って言いあえば残念会は春の祭り。 せまくて、くるしくて、ままならない私たちはこの世の同期だろう。 この抱擁がよくできたまがいものではなく、ほんと

手紙の前の手紙

強い風の中でよろめきながら、この体をここに運んだ幾つかの選択が確かに現実になっていることにほんのすこし惚けてる。 初めてやるけれど、ずっとやりたかったことをひとつ準備していて、 もうひとつはやると思っていなかったけれど、この世でこころみることが楽しみでしょうがないことをひとつ準備しています。 あ、あとあたらしい詩集の準備もしています。 ひとつめだけでも整ったら、手紙を書こうと思っていたんだけれど先に住所を尋ねてくれる友人が何人かいて(ありがとう)、自分は手紙のひとつも書かない

自分の姿を見せること

詩なるものは世界に溢れていて、それを他者へ差し出すことを選ばない人が大半であるというだけで記憶の片隅や胸の奥底に仕舞われている詩は人の数だけあるだろう。良い悪い、軽い重い、生きるも死ぬもどちらでもいい。どちらの肩を抱き、どちらを拒むものであったとしても「ゆらぎを大きく包むもの」として詩の在り方は有用だ。くりかえし言葉の前で傷つき失敗してきた私は詩に「有効活用」されている身なので、詩の特権について語ることはできない。それでもこの頃はマイノリティを意識する必要がなくなってきたと感

私たちは映し合い、響き合うために出会った

「自愛」という言葉がうんと奥行きのある言葉に思えてからというもの、どうして外側に目や耳があるのか、そんなことばかりが不思議だ。 愛すべき、否そうするしか他ない私の内側は目に見えず、声はあちらからもこちらからも聞こえてくるので聞きたい声以外は聞かないこともできる。もしも内側にも目や耳があれば、それきりのことに使える器官があれば私たちはこんなにも誰かや何かをこの世界に求めなくて済むだろう。 “(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうは

すべての手紙を出し終えた日

最後の手紙を出し終えたあとの世界にて珈琲を飲んでいます。手紙を書き続ける日々がとうとう終わってしまった。みんなこの町から出かけて行った。私の呼び声、私の歪な文字の祈りよ。いってらっしゃい。気をつけてね。 書くことで守ってきたこと、書くことで守られていたこと、それから言葉では語り得ないもの。行動は表情は言葉の外にあり、語ろうとする傍から越えられない壁が生む影に立ち尽くしていることに気づかされる。手紙を書き終えたここからは、いよいよ書けないものに向かってゆく。あとはやるだけだ。

私の水辺で虹を作る

一昨日は「虹の作り方」を検索して消えない虹を作った日。 昨日は最後の手紙を書き終えた日。 今日は本にも言葉にも収まらないおおきなものを連れて歩いているイメージをして改札前のちいさな渦を足早に通り過ぎた。 頭上高く高くある星の光や風の速さを頼ってゆく。 溢れていよう。満ちていよう。 いい仕事も、愛に誠実であることも、ここからしか始まらないと観念してからはもうずっと手当てについて考える日々を過ごしています。傷つくことの容易さに比べて繕い労わることは多様性に溢れどこまでも奥深い。傷

生きているあなたへ

Googleで「自助」と検索すると以下の文が出てくる。 「自分で自分の身を助けること。他人の力を借りることなく、自分の力で切り抜けること。」 私は自助や自立を前提とした生き方を強いられていることにほとんど違和感を持っていなかった人間だ。なぜなら自分でなんとかできるならそれが一番だから。他者があってこそだと常々感じながらも、長い間私は私を養っていることが自尊心の中心にあった。 でも私は助かってしまっただけだ。生き残っただけだと思う。 「当たり前に呼吸していることのふしぎ」をテー

にぎやかしいオードブルの前で

安心しているよ。 一年前の自分のとなりに腰掛けてそう言える気持ちを、ぜんぶ伝えられるほど言葉はうまくできていない。私もぽんこつだけれど、言葉だってそうなんだ。これは道具。道具のための感慨なんて、感情なんてない。だから拙い言葉を何度だって交わし合う。大丈夫なときも、そうでないときも、今ここをどうにか生ききるために、あなたの目や耳を頼りながら、私は言葉のはたらきを信じる。

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