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木のあれこれ。no.6 ピアノを知る、ベヒシュタイン。

ピアノのほとんんどは木材でできている。
世界3大ピアノと呼ばれる、
「スタンウェイ」「ベーゼンドルファー」「ベヒシュタイン」
のピアノたちはどれも何人もの職人の手で1台を数年かけて作るような傑作である。木と音楽は切り離せない。
音でも木は昔から人々を楽しませてくれた。

ピアノの良し悪しを決めるのは
①設計
②素材
③製造方法
だそうだ、ものづくりはやはりこの3次元に集約される。

ピアノの木についての記事をまとめる前にまずは
ピアノのことを記事にしたいと思う。

Bechstein ベヒシュタイン

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偉大な音楽家に愛されたドイツの名器、ベヒシュタイン

1853年に、フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・ベヒシュタインがベルリンで創業して以来、ベヒシュタインピアノは、数々の偉大な音楽家に愛されてきた。
豊かな基音と温もり。豊かで独立したクラシカルな響き、高度な要求に確実に応える正確さ。これこそが、ベヒシュタインの個性である。リスト、ブラームス、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフ、バルトーク、ブゾーニといった偉大な音楽家にインスピレーションを与え続けたベヒシュタインの響きは、材料の選定から加工まで、伝統に根ざした職人の熟練した作業と幾度もの厳しい検査を経て、世に送り出される。多くの音楽家の要求に応えてつくられたベヒシュタインのピアノは、現代でもチッコリーニ、ダルベルト、エル=バシャ、イヴ・アンリ、リフシッツといった著名な演奏家に選ばれ、ピアニストの求める豊かで繊細な音楽表現を可能にしている。

ベヒシュタインの歴史

1853年ベルリン。フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・ベヒシュタイン。
チューリンゲン州ゴータ出身の楽器職人27歳。
ドイツの政治的混乱の時代に、彼はプロイセンに自分の工場を作った。
しかし、19世紀半ばのベルリンは芸術、科学、哲学、文学の中心地として急速に発展していった。カール・ベヒシュタインは、ベルリン、ロンドン、パリにおいてピロー、パペ、クリーゲルシュタインといった一流メーカーで修業を行った。ベヒシュタインがパリの楽器製作職人セバスチャン・エラールと出会っていたかは定かではないが、べヒシュタインの工場が19世紀末までにはフランスの一流ピアノメーカーを越えてヨーロッパ一のメーカーになったことは確かだ。

マーケティング上手なベヒシュタイン

カール・ベヒシュタインはつつましく、ベルリンの文化生活に馴染んでいった。そんな国際人は、フランス語を話し、数多くの芸術家達、プロイセンの宮廷ピアノ教師テオドール・クラクなどとつながりを持っていた。ベヒシュタインの革新の一つには、強力なマーケティングツールとしてこうした社交の場での親しいつながりを利用したことにある。

ベヒシュタインの親友に、リストの弟子ハンス・フォン・ビューローがいる。1855年、ビューローは偉大な作曲家に宛てた手紙に、ベルリンは「まともなピアノが完全に欠如している」と書いている。このことは、べヒシュタインをリストの力強い演奏にも耐えうるモダングランドピアノを作ろうと駆り立たせた。ベヒシュタインの最初のコンサートピアノは強健で最新の風貌を備え、1856年に完成された。ビューローはコンサートでこれを弾き、大成功を収めた。

そして1857年、ターニングポイントを迎える。ビューローは、ピアニストにとってと同じくらいピアノにとっても消耗の激しいといわれるリストのソナタ ロ短調 を初演した。交響曲的要素をもったこの非常にセンチメンタルな作品は、時代感覚を表し、ピアニストとピアノに最大限度を求めた。しかし、ビューローとベヒシュタインのコンサートグランドはその限界に見事応えた。成功はふたりの絆を固めた。ビューローは音楽界への影響力を強め、数年後、ベルリンフィルの指揮者に任命されることとなる。

ブランドの確立

有名な音楽家達がそのブランドの名声に貢献し、他の競合ブランドに勝るベヒシュタインの優位性を讃えた。ある人は「色彩豊かなピアノ」と讃え、またある人はベヒシュタインを「王室の認めるピアノメーカー」と讃えた。

カール・ベヒシュタインは、当時ピアニストが何を望んでいたかを悟り、新たな音楽的理想に応えるピアノを作ることができた。ビューローは、新たな美学を完璧に具現化しているこの崇高な楽器を鮮やかに称賛している。

19世紀の最も偉大なピアニスト、フランツ・リストは、1860年に最初のベヒシュタインを手に入れる。ベヒシュタイン社の販売元帳には、出荷番号247番に「カぺルマイスター リスト、ワイマール」と記されている。

カール・ベヒシュタインは最先端の技術革新にも挑んだ。例えば1853年、彼は最初のアップライトを製作した。当時ベルリンでは水平弦が主流だったにもかかわらず、ベヒシュタインは高さ120センチの斜行弦を用いた。しかしながら、上々の売行きは彼の決断を確かなものにした。

さらに加速するブランド力、世界進出。

1862年には、ロンドン世界展示会において、地元の有力なライバル達を凌ぎ、ベヒシュタインはいくつものメダルを獲得した。審査員は、次のように述べている。

「ベヒシュタインのピアノの注目すべき点は、新鮮で自由な音色、気持ちよい弾き心地とバランスのとれた音域にある。さらに、それらはどんな力強い演奏にも耐えることができる。」

ドイツに送られた公式レポートにも、このように書かれている。
「プロイセンの王室に任命され、アメリカ、アジア、イギリス、ロシアへも渡ったベヒシュタインは、ロンドンに2台の素晴らしいグランドピアノを送った」

同時に、カール・ベヒシュタインは偉大な芸術家達との友情を深め続けた。1864年、リヒャルト・ワーグナーの誕生日にグランドピアノを送った。毎年祝い物を贈られたフランツ・リストもまた、ピアノメーカー宛に、次のように書いている。

「あなたの楽器に何か言わせてもらうとすれば、ただただ称賛するだけだ。28年間ベヒシュタインを弾き続けているが、その優秀さが衰えることは一度だってなかった。ベヒシュタインを弾いた最高権威者の見解によれば、もはや称賛する必要はない。それは、余計な言葉で、ただ冗長で同じような言葉の反復になるのだから。」

規模拡大事業

ベヒシュタインが評判を得るにつれ、会社も上向いていった。1860年代初め、ベルリン、ヨハネス通り4番地にオープンした生産工場は、1867年に隣接区を買取り拡張した。英露への輸出ブームや1870年の工場拡大によって、1年間で500台以上のピアノを製造できるまでになった。1867年、カール・ベヒシュタインは672台で100万マルクを超える売上を出し、個人収入では80,000マルク稼いでいた。こうして起業家として成功したにもかかわらず、彼は寛大で、非常に謙虚で、人間的深みにあふれ、いつも人々と友好的な関係を築こうとしていた。第二の生産拠点は1880年、グリューナウアー通りにオープンした。その年、カール・ベヒシュタインは、ベルリンの郊外住宅地、エルクナーのデメリッツ湖岸に別荘を持っていた。手厚いおもてなしで有名な彼は、多くの芸術家達をその田舎に招待した。オイゲン・ダルベールもその一人で、1883年、ベヒシュタインの別荘に滞在中にピアノコンチェルトを作曲した。

1892年、ベルリンにベヒシュタインホールがオープンし、ヘルマン・ヴォルフが芸術監督となった。このホールのデザインは、ベルリンフィルが使うコンサートホールの改築も担当したフランツ・シュヴェヒテンが行った。オープニングコンサートには、アルトン・ルビンシュテイン、ヨーゼフ・ヨアヒムとヨハネス・ブラームスによる弦楽四重奏、そしてもちろんハンス・フォン・ビューローが演奏した。

第3の生産拠点は、クロイツベツクのベルリン市、ライヒェンベルガー通りに、亡日1900年3月6日の3年前に建てられた。

富裕層向けにブランドを確立したピアノ界のビジネスマン


彼の非凡な人生はプロイセンの美徳とキリスト教文明に基づいている。彼はかなりの富を蓄え、従業員が健康でいられるよう父親的な態度で世話をした。彼が死んだとき、王立磁器製陶所ベルリン(KPM)は、月桂樹で囲まれた彼の肖像と伝説的人物「カール・ベヒシュタイン 1826-1900」と装飾されたコーヒーのサービスを提供した。

20世紀に差し掛かる前、べヒシュタイン社はファミリービジネスで世界向けに輸出し、3人の息子達、1859年生まれのエドウィン、1860年生まれのカール、1863年生まれのハンスことヨハネスが経営していた。ベヒシュタイン一家は800人近い従業員を指揮し、1年に3500台を製造していた。1903年、創業50周年の年には年間4500台を作った。

ロンドンのベヒシュタインホールは1901年ウィグモアストリートにオープンした。毎年300回近くコンサートが行われているところだ。このころは、大英帝国が輸出のほとんどを占め、ヴィクトリア女王は自ら挿絵を描いて装飾を施した金箔のルイ15世ピアノを注文した(ベヒシュタイン社はこの有名な作品のレプリカを2012年製作した)。

第一次世界大戦は会社に大きな影響を及ぼした。ロンドンのベヒシュタイン・ホールは接収で、ウィグモアホールに改名され、1903年サントノーレ通りにオープンしたパリの子会社も失った。さらにドイツの敗戦と1919年からのインフレにより従業員と生産の厳しい削減を強いられた。戦前は1100人の従業員で毎年約5000台のピアノを作っていたが、今やピアノは贅沢品でそれを持つ余裕のある人はいなかった。

1923年、インフレが空前のピークに達した時、ベヒシュタインは株式会社になった。数年前会社は兄弟に買収されていたが、エドウィン・べヒシュタインは大株主になった。おそらく妻の力もあっただろう。

新たな金融構造にも関わらず、輸出事業は高い関税のもと停滞した。しかし1928年、べヒシュタインはアメリカとの取引に成功した。有名デパートのワナメーカーは、アメリカにおけるベヒシュタインの独占代理店になったし、記者会見付きでイベントを告知したり、ニューヨークの富裕層向けにレセプションを開いたりしていた。

その後の会社運営の歴史などはこちら

「ベヒシュタイン・シューレ」という概念の確立

「C. Bechstein Klavierscule ベヒシュタイン・シューレ」 とは、ベヒシュタインというピアノの個性・設計のコンセプトを活かし、楽曲をより深く理解するための演奏法・上達法にまつわる概念の総称です。
ベヒシュタイン・ジャパンでは、ベヒシュタインの個性が音楽表現の可能性を引き出せるものと考え、多くの優れた演奏家や講師の方々のお力添えを賜りながら様々な音楽教育活動を展開しています。(https://www.bechstein.co.jp/bechstein/schule/)

ベヒシュタインのピアノ作り

ベヒシュタインのピアノは温かく、色彩豊かで、抒情的、歌うような、クリアで澄んだ伝説的で比類のない音色を備えている。音楽の創造性に限界を設けず、ソロ演奏でも室内楽のリサイタルでもどちらにおいても最適である。
その明晰さと純度の高さが典型的なベヒシュタイン・ピアノの音色は、独特の鮮やかな次元での演奏を提供する。

響板

標高千メートル以上でゆっくりと時間をかけて育ち、非常に狭い間隔の年輪が自慢のマウンテン・スプルース。
この木材は厳しい品質チェックを受けた後、まず伝統的に屋外で乾燥させ、その後長期間管理された室内で乾燥させる。
一度形が作られると、響板に完全に制御された緊張を与える為に両端が先細くなった響棒を接着する。さらに、響板の縁はより一層共鳴性を高めるためにわずかに削られる。

響棒(響板リブ)

響棒もまたマウンテン・スプルースから作られる。
響棒は弦のテンションによる響板方向への力を支え、そして、その振動を響板の表面全体に伝える役割を果たす。
響棒の細くなっている両端は響板のフレームに合わせて切り込まれた溝に完全に接合する。一度響板に接着されると、響棒は響板の振動を最適にし、“制御された緊張状態”を生み出す。

駒(ブリッジ)

駒は弦を、響板と響棒から形成される共鳴部位とつなぐ役割を果たす。特別な製造工程のおかげで、ベヒシュタインの駒は響板へ弦の振動を減衰することなく統合的に伝搬する。
ベヒシュタインのグランドピアノの響棒は垂直に接着されたヨーロッパのカエデの複数の層からできている。
その層の最上部には無垢のシデの層が貼られ、その上に弦が乗る。
ベヒシュタインのアップライトピアノの駒は無垢のブナで作られている。

響板リム(響板枠組)

響板リムは水平方向に長いマホガニーとブナの層で形成される。
支柱に組み込まれたリムに響板背面が組込まれ、振動をより良く伝える役割を果たしている。
響板、響棒、駒から成るパーツは念入りに“制御された緊張状態”の影響のもと、その上部(クラウン)が形成されるまで一定の時間寝かせられる。
続いてこのパーツはフレームと接合され、響板の上部をコントロールしながらフレームを調整する。
この複雑な手順は響板の共鳴を最適化するために行われる。

側板

この側板は垂直方向と水平方向の複数のブナの層から作られており、これらは一緒に接着され、最適な頑丈さを実現するように設計されている。
素材は、側板が非常に安定した状態を保ち、そして完璧に響板が枠に収まるように慎重に選定される。

支柱

グランドピアノの裏側に見える大きな支柱は、響板背面の枠組みを固定する役割を担う。
支柱には慎重に選定されたスプルースを使用する。
支柱は“蟻継ぎ“(木材の接合方法の一つ)と大きな木材のダボを使用し枠組みに固定される。
この支柱は、鋳鉄フレームも支える、鉄製の部分で補強された奥框(横主軸)になる一点で合流する。
この特殊な設計は、アコースティック・アッセンブリー(音響をつかさどる組立部)のエネルギー循環を補完している。

その他木部以外のパーツ


日本のベヒシュタイン正規代理店

参考:https://www.bechstein.co.jp


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