推しを推すことにも、もっと市民権を。

それだって、立派な「支援」じゃないか。

100万円が当たるとかいう話を聞いて

先日、ZOZOTOWNの前澤社長が、100人に100万円をプレゼントするというお年玉企画をやっていた。
前澤社長のアカウントのフォローし、該当ツイートをリツイートすれば応募できるという、昨今よく見るスタイルの企画である。

やっている人物が人物だからか、はたまた金額のせいか、この企画には賛否両論あったようである。気軽にリツイートしている人物を苦々しく思っているかのような批判ツイートも見かけた。

私はどうかというと、最初にこの企画ツイートを目にした時は、ものの見事にスルーしていたのである。

というのも、いわゆる「フォロー&リツイート」型のキャンペーンは、今やどこでもやっているような至極ありふれた広告キャンペーンだと認識しているからである。今回のも同様のものだと直感したので、ぶっちゃけ内容すらまったく読んでいなかった。

ところが思いの外様々な反応を目にしたので、気になってもう一度確認した。
……が、やはり特に興味を惹かれることはなかったのだ。100万円という文字列をしかと見たにも関わらず。

私にとっての100万円とは

何故か。

私にとって100万円とは、「贔屓の退団資金」という認識になるからである。

「贔屓の退団資金」とは、贔屓(=推しているタカラジェンヌ)が卒業を発表してから、最後の公演を全日程終えて卒業するまでにファンがかけることになる金額のことである。

贔屓がトップスターである場合、卒業発表があるのは実際に卒業する公演の数公演前あたりである(トップスターでない場合は卒業公演のお稽古初日に発表される)。

ファンはこのタイミングから、以後卒業するまでの公演のチケットを、それまでよりもはるかに多く入手していくことになる。
いざ卒業発表がなされれば、贔屓の舞台姿を見られる時間はもはや残り少なくなってしまうからだ(終わりは必ず来るものである)。

また、卒業公演のラストは(わずかな例外を除き)東京公演となるため、東京以外に住んでいるファンは何度も東京に遠征して観劇することになる。
よって、遠征費用も多く必要になる。

さらにお茶会(=ファンミーティング)、千秋楽後に行われるフェアウェルパーティーの参加費、その他ファンクラブ等でかかる諸費用なども含めると、だいたい100万円程度になるというわけだ。

このため、ファンは贔屓がそろそろ卒業するのではと感じ始めると、おもむろに退団資金を用意し始める(退団貯金と呼ばれる)。
もっとも、稀にそんなことには全くお構いなく、何の予兆もないまま突然贔屓が卒業してしまう場合もあるわけだが。

どうせ100万円もらえるならば

さて、話を戻そう。

100万円と聞いて「贔屓の退団資金」を想定した私は、「さすがにまだ要らないな」と感じた。

というのも、私の贔屓、聖乃あすかさんはまだ入団5年目(今年4月で6年目)。今彼女が置かれている立場などを考慮すると、さすがに今すぐ卒業することはないだろうと思ったのである。

私の予想では、恐らくあと10年程度は先。
だから、今はそれに向けて、1ヶ月に1万円程度貯めるようにしておけば十分だと(それでもいつ卒業するか分からないのが宝塚であるということは重々胸に刻みつつ)。

だから、とりあえずは今でなくてもいい。
仮に100万円がいざその時にあったとしても、今この瞬間にあったとしても、使い道は贔屓の舞台の観劇。贔屓のために使う、そこは変わらないのだから。どうせなら、一番必要となる時期に使いたい。

……そんなことを考えながら、キャンペーンの顛末を眺めていた。

お金を使って支援する対象は限られるべきなのか?

結局、100万円は社会貢献をしている人たちの元に配られたらしい。なるほど有意義な使い方である。

しかし、ひとつ思ったことがある。

貢献先、支援先は、「社会」でなければならないのだろうか?

世の中では、社会全体、特に子供やお年寄りを含む生活弱者への支援やボランティアが推奨されている。今や就活にさえ必須の活動とされているほどだ(私はこれには疑問しか感じないが)。

だが、そうやって自らすすんで支援するのは、そういった人たち相手でなければならないのだろうか。

社会の不特定多数の人々、子供、お年寄り、そういう人たちに限らず、自分にとって「この人を支援したい」と思った特定の人間に対し多大な支援をしていくことは、世の中では歓迎されないことなのだろうか?

推しを推すことはただの趣味じゃない

「推し」という言葉がある。誰かのファンになった場合の、その「誰か」を指す言葉である。
その人物は、アイドル、歌手、アーティスト、アスリート、誰でもいい。それこそ一般人であってもよい。「この人を応援したい」と感じた人物であれば、誰であれ「推し」という存在になりうる。

しかし、今の世間では、「推しを推すこと」は趣味程度にしか捉えられていないように思う。むしろオタクとして敬遠気味に見られていることの方が多いようにさえ感じる。

私はこの現状に不満に近い感情を覚えている。
私自身、聖乃あすかさんを「贔屓」(=推し)として推している身である。彼女のためなら観劇・お茶会参加・グッズ購入・差し入れ・入り出待ち参加など金銭的・時間的支援を惜しまないのだが、「所詮は趣味」と思われているように感じられてならないのだ。

推しを推すことは、単なる趣味に留まらないレベルになりうる。
「推しの幸せが私の幸せ」という言葉があるように、推しを推すことが自分への幸せを呼ぶ活動であり、生き甲斐にさえなりうる。現に、今の私がそうである。

確かに、日本や世界の子供たちなどを支援するといった社会貢献活動を行うことで幸せを感じられる人もいるだろう。それも大いに結構である。
そういう人たちは義務感からやっているというよりは、自分がそうすることが楽しいから・好きだから、という理由でやっているのではないかと思う。

推しを推すことも、同じことである。
「私がこの人を推さなくちゃ」という思いが生まれることもあるが、それは推しのことが好きだからこそ生まれる思いである。推しを推すことで、ファンは幸せを得る(推しもまたそうやって応援してくれるファンから幸せと活力を得る)。楽しいし、好きだからやっていける

不特定多数の誰かを支援することと、特定の誰かを支援すること。

生活弱者を支援することと、誰かに夢を与える活動をしている人を支援すること。

両者に、どれほどの差があるというのか?
なぜ前者は(それこそ万人が取り組むべきとみなされるほどに)推奨されるのに、後者はただの趣味と切り捨てられるような扱いをされるのか?

推しのためにお金を使うことは無駄じゃない

「推しを推すこと」が単なるアイドル等の追っかけのように思われることに対しては、正直言って違和感しかない。
ましてや、推しに対してお金をふんだんに使うことを、ただの浪費と思われるなんて冗談じゃない。

推しを推す人は、推しのためならお金を使うことを厭わない(これはオタクも同様であろう)。それはつまり、経済を回しているということである。

ただお金を貯めるばかりで使わない人たちより、よほど経済を活性化させているのではないだろうか。
なにせ、なけなしの金すら貯金することなくすべて推しに捧げていくのだから。

それに、推しのためにお金を使うということは、「自分のお金を推しのために役立ててほしい」という意思表示でもある。実際、グッズの売り上げなどは、推し本人の活動のために役立てられる。決して無駄にはならないし、これもまたファンにできる立派な支援の形である。

何より、「(自分ではなく)誰かのために自分のお金を使う」ことを実践できる。お金に対する認識も変わっていくのだ。

「推しを推すこと」にももっと市民権を

私は去年聖乃さんを推すようになって、「推しを推すこと」を強く意識するようになった。私にとって、それはもはや趣味の域を超えている。
だからこそ、「ただの趣味」とは思われたくないし、もっと一般的な活動として認められたらいいのに、と思っているのである。

ほんの少し前までは、そもそも「推し」という言葉さえなかったように思う。あくまでアイドルや宝塚、ジャニーズなどの内々の世界でそれに相当する独自の呼び名があっただけである(たとえば宝塚では「贔屓」と称される)。

それが今や、「推し」という言葉が生まれた。「推しがいる」と言えば、「誰か応援している人がいる」と解釈してもらえるようになった。少しは一般的にも認知されるようになったのかなと思う。

それでもやはり、まだまだ認知度は低いと思う。「単なるアイドル等の追っかけ」という認識も、まだまだ強いように感じられてならない。
もっと誰もが、「私はこの人を推している」と堂々と言える世の中に、推しを推す人をあたたかく見守っていくような世の中になってほしい。

そんなことを願いながら、私は今日も、そしてこれからも、推し(=聖乃あすかさん)を推していく。だって好きだから。それこそが推しを推すことの、さらには日々を生きていくことの原動力なのだから。

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