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石戸諭『ルポ百田尚樹現象』を右派の立場から読んでみた

今は春ですか秋ですか

「右派系の書籍や雑誌は売れる。左派系の出版物はもはや風前の灯火」というのが世間の耳目の一致するところで、だからこそ筆者の石戸氏も「現代」を語るうえで右派の動向は欠かせないと感じ、その「空虚なる中心」である百田尚樹氏に照準を合わせたに違いありません。というわけで、右派である私が石戸諭『ルポ百田尚樹現象』(小学館)について、思うところを書いてみたいと思います。

まさに右派は「わが世の春」を謳歌している――と多くの人が思っていることでしょう。まさに百田氏もお呼ばれしていた政府主催の「桜を見る会」が、そうした状況の象徴であるかのように。

しかし「保守論壇」なり「右派」なりを20年くらい眺めてきた身としては、もうとっくに春など過ぎ、秋も終わりかけていて、まもなく冬の時期を迎えるにあたって何を備えておくべきなのか、焦るばかりである、というのが正直なところでした。これは本書を読む前から抱いていた危惧です。季節は巡るし、満月も欠ける。

そうした思いから、しかしだからといって急に何かできるわけでもなく、このnoteでもあべ本レビューというシリーズに取り組んだりなんだりしてきました。そして、本書『ルポ百田尚樹現象』の読後感は、そうした「冬」の到来をいよいよ覚悟せねばならない、との意を強くするものでした。というか、季節はもう冬なのに裸踊りしているような感じを、誰というわけではなく業界(?)から感じ取ってしまっており、読んだ後もその意を強くした次第です。

「保守系関係者」に共通するメンタリティ

これまでも「保守とか右派っていうけど、結局『反左翼』『反権威』なんじゃないの」という話はこのnoteでも書いてきましたが……。

本書でも石戸氏が、「保守系関係者」の言に共通するメンタリティとしてこのように書いています。

彼らのメンタリティーに共通しているのは、自分たちはマイノリティーであり、自分たちこそが権威に立ち向かっているという意識だ。

「お気づきになりましたか」の孔明の画像を貼りたいのをぐっと我慢しますが(前にやりすぎたので)、この「意識」こそが、実は保守を冬の時代へ追いやっているんではないかと思うのですね。

今回も、「百田氏がどうこう」ではなく、いわゆる現象や論壇、右派左派問題として以下、語っていくわけですが……。

いや、もちろん朝日新聞が代表するような「権威」側が、いわゆる「リベラルしぐさ」的に自分たちと違った価値観の人間たちを「反知性主義」(本来の意味ではなく、単なる「低能」という意味で)とラベリングしていたのは確かなので、こうした意識を持つのもあながち的外れではない。しかし朝日の部数が落ち、左派論壇誌が風前の灯火となっている今、保守側はマイノリティではないし、ましてや被害者でもないんですね。

(かといって、もちろん左派や反安倍側が「弱者」「被害者」というわけでもない。どのジャンルにおいても現状の論争の背後にはこの「弱者ポジション争い」があるのが気にかかっていますが、保守も例外ではない、という面があるのかもしれません)

決定的なのは、第二次安倍政権が誕生し、歴代最長政権となっている今、もはや保守(の中でも安倍支持層)は自分たちこそが「ある意味では」マジョリティであり権威になったことなのですが、本書の第一部を読む限り、また私の体感からしても、保守の人たちにはこの自覚はなさそうです。どちらかと言わず、「メディアからいじめられる安倍総理は可哀想!」という感覚をまだ持っている。

読者や有権者はどう思っていてもいいわけですが、情報の発信者は「自分たちがどういう位置にいるか」を客観的に見極めてほしいものです。雑誌も本も(左派よりは)売れ、動画もネット番組も隆盛を極めているのに、「相手はもっと大きい」「こちらはまだまだです」といって、「私たちは権威ではありません」はもとより、時に行き過ぎて「被害者です!」というのは、分かる一方でちょっとどうなのかなと思うわけです。あるいはわかっていてその認識にとどまっているのではという節も。もちろん、単純に新聞の部数や地上波テレビと比べれば数字は少ないでしょうが、影響力は単に数字だけで測れるものではない気もしますので。

この認識のずれ、変化に対応していない現状があるからこそ、本書などは「元毎日新聞の記者が保守論壇、(その最も売れ線の筆者である百田尚樹)について批判的に書いている」ということで「攻撃」とみなされかねない状況になってしまうわけですが(実際には攻撃的には書いていないと思うが)、「体制」側になったら今まで以上に検証・分析されるのは当然のことなんですよね。それは保守や右派がしつこいくらいに朝日新聞を検証・分析してきたのと同じことです。

いつまでも自分たちが追及する側で、追及される側ではないという意識が抜けないと、評論そのものを攻撃とみなし、無視するか罵倒するという状況になる。「私を批判する者は反日左翼!」的なことです。そうすると「意見の異なるものがお互いの視点を提供し合い、物事を立体的に見るために言葉を交わし合う」という営みは全く成立しないことになる。

本書を読み、そして「保守論壇」なるものの行く末を思うときに、寒々とした風景が広がるのはこういうわけです。

「体制」を引き受けない姿勢

こういう、「体制」を引き受けない姿勢というのは本当に問題で、しまいには「私は保守ではない」「保守論壇?なにそれ」的な物言いになってしまうわけですね。えーっと、保守ってそんなに嫌なものでしょうか。まあ、私も個人主義的なところがあるので「くくられる」のが嫌なのは分かります。

しかし、ある種の「論陣」を率いていこうという自覚はない、あくまでも「個人」。自分の発言がどう波及しどういう影響を「ある種の仮想中間共同体(つまり読者やフォロワー)」にもたらすか、あるいは自分の振る舞いによって仮想中間共同体がどう外側から評価されるか、を考えているとは思い難い。何より、自分の記事に影響を受ける読者の身になって考えていないように思えてしまうのはどうなんでしょうか。一方では自身の持つ数の力を知っていながら。

元保守系で今は保守叩きに邁進しているある筆者は、「あれは当時編集部に書かされたものだ」などという発言まで繰り出している始末ですが「彼の言説に当時、影響を受けた読者に対する責任はどう考えているのか」と思わずにはいられないわけです。もちろん、後になって考えが変わることは多々あるでしょう。しかし、「変わった」ことについての説明くらいは、読者としては知りたいものです(朝日新聞の慰安婦報道に対して、保守・右派はそれを求めていたはず)。

もちろん私の記事にも過去のものを含め、間違いや誤解、考えの変遷はあります。その点、「気を付けるしかない」し、自分だけは違うなどとはとてもとてもとても、言えたものではない。しかし情報を発信する人が、「面白いから買って読んでください。こういうのを求めてるんでしょ? しかし信じるか信じないかは自己責任です。その時々で意見は変わります。たまに間違いが書いてあっても大したことじゃない、朝日新聞みたいに意図的に捏造したのではないのですから」的な逃げを打つとなれば、「面白ければいいだろう」というレベルでどうこうできるものではないと思うんですよね。

論壇の軸がぶれてしまった

本書では圧倒的に第二部の「つくる会」メンバーたちを追うくだりが面白いのですが、それはやはり保守論壇、右派言論というものが青春期だったからなのでしょう。特に藤岡信勝・西尾幹二の情念たるや圧巻で、その働きはまるで屯田兵のようなのですが、もともと存在していた「保守論壇」を一気に「戦える運動体」的にしていったのがまさにこの頃。

そして「つくる会」に小林よしのりが加わったことで、戦線は一気に拡大したというか、歴史論争を一般人が口にするようになる端緒となったというか、少し遅れて発達してきたネットとともに、「(私を含む)素人たちが参画していく土壌」を作ったわけです。なお、本書は「つくる会」周りが中心なので触れられていませんが、もう一人、この「素人でも戦える道具(言論の材料)をくれる保守の大物」「戦前と戦後をつなぐ存在」として渡部昇一がいたことも忘れてはなりません。

いずれにしろ保守派というのは福田恒存的な「常識から導き出される、どこか人工的な左派への懐疑」的なものを背負いつつ、荒れ地を耕しに耕して来たわけですが(この「荒れ地」時代についてももっと知りたいところではある)、ソ連の脅威がなくなった後は特に、論壇のテーマは「過去の日本をどう評価するか」が核だったように思います。政治に対しても言論に対しても「過去をひどく言うばかりの政治家/論者は去れ」の下地として「きれいごと論者はうんざり」というのが保守の論の核にあり、だからあくまでハト派ではあっても左派とは言えない自民党の宮沢政権批判や河野洋平批判というのは90年代以降、根強く残り、朝日新聞批判と合わせて保守論壇の「鉄板ネタ」でもあったわけです。

そうして耕された土壌で、まず「漫画家」が大ヒットを飛ばし、その後しばらくして、「テレビ屋的発想」や「週刊誌的手法」が「論壇」に持ち込まれたことによって、保守論壇は隆盛を極めるとともに変質していったというわけでしょう。それ自体が悪いわけではない。時代とともに変化するのは生き残る一つの方策でもあるので、変化自体が悪いわけではありません。それに、私もそこに乗っかっている面もあるわけで。

そこにはもちろんネット的な思考も流入します。折しも出版界も斜陽の時代、「売れる」ことは正義。これ自体、商業出版である以上は何を言っても売った方が強いのです。「バズる」ことこそ正義。そこでは敵味方を峻別し、過剰なまでに敵を叩き、味方を守る構図がより強化された。それも仕方ないのかもしれないが、何より問題は実質的には河野談話と変わらない安倍談話や日韓合意などが「味方の安倍ちゃんのやることだから」と見過ごされ、論壇の軸はブレたのです。

「冬来たりなば春遠からじ」となるか

冬の時代はこれから厳しさを増すでしょう。すでに『諸君』『SAPIO』は消え、産経新聞は経営悪化、一部保守系出版社の窮状も漏れ伝わってきます。

しばらくは今まさに刈り取られた収穫で回せますが、その後はどうするのか。問題としては中国の台頭があるので、対中言論は一時、対韓ブームの陰にありましたが、その方向は再び強まるでしょう。良質な言論ならもちろんそれも大歓迎です。

一方、国内はどうか。「安倍をあんなに持ち上げて、この後どうするんだ」という反右派の嘲笑もありますが、これに対しては「次になったやつが石破なら叩く」ということでしょう。「同じことをしても安倍に対しては批判しなかったのに、石破だから批判する」というダブルスタンダードを許せば、本来は朝日のダブスタを批判する資格を失いますが、そんなことはお構いなく石破叩きが展開されるまでなのは想像に難くない。そもそも、フルスペックの集団的自衛権を容認している石破に、集団的自衛権に猛反対した朝日が期待をかけていること自体もおかしいのですが。あるいは、維新を担ぐのか。分かりませんが、いずれにしろその景色そのものが冬景色というほかはありません。

「冬来たりなば春遠からじ」という言葉がありますが、保守論壇については正直光が見えません(方策として「海外の論客を連れてくる」というのはありますが、いよいよ日本という軸は揺らぐ)。本書では筆者の石戸氏が何とか光明を見出そうとしていますが、それが保守(右派)に届くかどうか…。

……光は自分で見出すしかありません。

私としては双方の意見に触れ、この場で「左派から見た保守ってこうみたいですけど、こことここは同感です」などと発信することで、左右に共通点があれば指摘し、なくとも「理解する」部分を増やしていけるようにするほかないと思っています。

わずかですが、「向こう側」に言葉が届いて「なるほど、右の人はそう考えているのか!」とひらめいた、というような感想やレスポンスもいただいております。そういう思いを積み重ねていくほかに、私にはちょっと手段が見つからない状況です。

そしてこれをやるためには、そうした緩やかな「仲間(右でも左でも、いろんな意見を聞いて考えてみたいという人、もといこの記事をお読みくださっているあなたのことですよ!!)」を増やしつつ、しかし、ときに縁故を断ち切ってでも批判しなければならないこともあるわけで、そうなるとやはりこのnoteという場所は大事でもあるわけです。

「百田繋がり」プラス「反対側にいる人との話し合いの可能性」について書いている以下の記事などもお読みいただければ……。

みんなで作りましょう、「論壇」を、もう一度。

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